2025年10月4日土曜日

鈴鹿明神社 - Wikipedia

鈴鹿明神社 - Wikipedia

鈴鹿明神社

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鈴鹿明神社(すずかみょうじんしゃ)は、神奈川県座間市に鎮座する神社。戦前の近代社格制度(旧社格)においては郷社に列しており、現在では神奈川県神社庁による献幣使参向神社(同県神社庁指定神社)となっている。

祭神

かつての祭神

『新編相模国風土記稿』(天保12年 (1841年) 成立)によると、牛頭天王を合祀していたという[4][5]。

由緒・歴史

創建時期は不詳だが、第29代欽明天皇の御代(539年?〜571年?)に創祀したと伝えられている[6]。一方『正倉院文書』によると、天平年間(729年〜749年)には当地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と呼ばれていたことから、王の名前より「鈴鹿」という字名が付けられたとも考えられている[2]。また、当社の縁起では「遠く伊勢の鈴鹿郷の祭礼において神輿が海上を渡御していた際、暴風によって漂流し相模国入海の東峯に漂着したといい、このことから里人が座間全郷の鎮守として社を創建し鈴鹿大明神を崇め祀った」という伝説も残されている[2][3][6]。

当社蔵、最古の棟札は弘治2年(1556年)の再建時のもので、当地が小田原北条氏の領地であったことから北條藤菊丸(北条氏照)が大壇越(金子五千疋で「鈴鹿大明神再造成就処」[3][7][注 1])、および地域の領主若林大炊助であった旨が記されているが[4][8]、これには近世初頭の改竄が見られる[9]。またこの再建時には、京都祇園の八坂神社の祭神「素戔鳴尊」が合祀されている[1][3]。造立修理を伝える棟札はこの他にも、元和6年(1620年)[4]、寛文6年(1666年)、元禄16年(1703年)、享保3年(1718年)および18年(1733年)、宝暦8年(1758年)の記銘のあるものが伝えられている[8]。

江戸時代には当社が鎮座する座間宿村と入谷村[注 2]の総鎮守となっていた[5][6]。その後、明治2年(1869年)12月には、座間宿村と入谷村を含む27村(現在の座間市・相模原市の全域および大和市・海老名市の一部に及ぶ広範囲の地域)の郷社に列格している。また、現代においても昭和43年(1968年)1月に神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定され、県内の有力神社となっている[2]。

有鹿神社との説話縁起

海老名市上郷に鎮座する有鹿神社と争った説話縁起(有鹿と鈴鹿の神争い)が存在する。このことは神奈川県神社庁著のかなしん出版『かながわの神社・ガイドブック』で以下のように紹介されている[1][12]。

欽明天皇の御代(539年?〜571年?)、伊勢鈴鹿から当地(座間)に遷ってきた鈴鹿神は財宝を持ち豊かに暮らしていた。一方、その頃相模国勝坂にいた有鹿神はこの財宝を横取りしようと当地にやってきて争いになったが、諏訪明神[注 3]と弁財天の加勢で鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷へ追い払われた。それ以来、有鹿神は勝坂へ帰ることができなくなったという[1][12]。

また、『座間古説』[注 4]では当社と有鹿神社の関係性をよく表す以下の伝承を冒頭で紹介している[6]。

当時座間7ヶ村の内の一つであった勝坂(現・相模原市)に有鹿の蛇神が棲んでいた。有鹿は鈴鹿の宝玉を盗むため「鈴鹿の森」に絡まり機会を狙っていたが、鈴鹿の社内にいた梨の木の諏訪明神[注 3]と諏訪の下(海中)の弁財天がこれを追い払い、続いて谷の深(やのふけ、桜田一帯の低湿地帯)で三神がそれぞれ大蛇に変身して有鹿と戦った。これには適わず、有鹿は相模川沿いに敗走し海老名で有鹿大明神(海老名総鎮守)として祀られたという。
その後、有鹿明神の神輿は勝坂まで巡行していたが梨の木の諏訪坂を避けて進んだものの、鈴鹿の森の西方で神風に遭い巻き落とされてしまった。その場所(現在の座間小学校の辺り)は「輿巻」(こしまき)と呼ばれるようになり、それ以来、有鹿明神の神輿は梨の木の諏訪坂を通らなくなった。

さらに、『座間古説』では両神社における祭礼の関わりや歴史についても以下のように紹介している[6]。

当社の神輿はかつて毎年6月7日に鈴鹿の森を出発し、大川原(新田宿の相模川原)にて「浜降り」を行った後、14日まで宮川家[注 5]の前で休んでから還御していたが、この日はちょうど有鹿明神の神輿が還御する日でもあった。この際、前述の敗北の経緯から、有鹿神は石に姿を変えて馬の背に担がれながら還御したと伝えられ、当社の神輿が境内に入るまで有鹿明神の神輿は待機してから通る習わしであったという[6][14]。
有鹿の氏子を困らせるために、鈴鹿の神輿の出発を遅らせるようなことがあったといい、双方が争ったこともあったというが、享保の頃から有鹿神社の祭礼(水引祭[注 6])の神輿が勝坂に向かうのに際して、河原宿の南で鈴鹿明神の神輿が出迎えて先導し、勝坂にて祭りを共にするようになった[6][16](この変化について『座間古説』では本来の習わし(前述)と異なっていることから、「儀礼を欠いたやり方である」と記述している[6])。これは明治初期まで続いていたが、明治8年(1875年)に座間宿村が飯綱権現社(現・座間神社)を勧請して氏子から離れると、有鹿と合同の神輿渡御も行われなくなった[17]。

上記の伝承は、海老名周辺(有鹿信仰)の人々と座間郷(鈴鹿信仰)の人々の水を巡る争いともされる(「有鹿神社#水引祭」も参照)[1][18]。また、当地に古くからあった地神と新しくやってきた高位の神との勢力争いが伝説となった可能性も指摘されている[15]。なお、勝坂には有鹿神社の奥宮とされる「有鹿谷」(勝坂遺跡西側の谷)が現在もあり、また同社の中宮はかつて前述の説話縁起にも出てくる諏訪明神(現在も同地付近に所在/MAP 、石楯尾神社の論社の一つで当社の古社ともされる[6]、現在は当社の兼務社)[13]の辺りにあったとされるが、中世期に衰退し海老名に遷されたという(「有鹿神社#本宮と奥宮、中宮」も参照)。

境内

境内社

境内には末社として2座の稲荷社や厳島神社(弁天社)が鎮座している[19]。なお『新編相模国風土記稿』(天保12年 (1841年) 成立)によると、当社の末社は稲荷、山王、弁天とされる[4]。

  • 稲荷社 - 境内入口の傍に鎮座している。
  • 稲荷社 - 小祠の手前には赤い鳥居がある[20]。
  • 厳島神社(弁天社) - 弁天池の中央(小島)に祀られている[20][21]。祭神は市寸嶋比売命で、3月3日に例祭が斎行される[22]。
過去の境内社
  • 星の谷(ほしのや)の三峰神社(座間市入谷3-2840) - 明治43年(1910年)、星の谷の三峰山から遷座されて当社の寄せ宮に祀られたが、昭和3年(1928年)に星の谷大門で起きた大火事の後、元の地へ戻され現在に至る。同社は埼玉県秩父地方に鎮座する三峯神社の末社とも言われている[23][24][25]。
  • 境内入口傍の稲荷社

    境内入口傍の稲荷社

  • 赤い鳥居のある稲荷社

    赤い鳥居のある稲荷社

  • 厳島神社

    厳島神社

古い石仏・小祠など

境内に入ってすぐの右側には古い石仏や道祖神、小祠、狛犬などが安置されている。

  • 石仏・道祖神・小祠など

    石仏・道祖神・小祠など

  • 小祠など

    小祠など

  • 大正8年(1919年)3月の銘がある狛犬
    大正8年(1919年)3月の銘がある狛犬

その他の境内施設・建物など

  • 社号標 - 鳥居横に「郷社 鈴鹿明神」と彫られた社号標がある。
  • 手水舎
  • 鐘楼 - 元禄3年(1690年)に梵鐘が奉納され[4]、施主である座間郷27ヶ村の名主の名も刻銘されていたというが、第2次大戦時の戦時供出で失われ現存しない[16]。現存する鐘楼は昭和48年(1973年)に再建されたものである[17]。
  • 神輿殿
  • 神楽殿
  • 祖霊社
  • 座間市戦没者慰霊碑
  • 鈴鹿明神参集殿(開館時間:午前9:00〜夕方/不定休)
  • 鳥居とその右側に社号標

    鳥居とその右側に社号標

  • 境内参道

    境内参道

  • 手水舎

    手水舎

  • 鐘楼

    鐘楼

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 神輿殿

    神輿殿

  • 慰霊碑

    慰霊碑

  • 鈴鹿明神参集殿

    鈴鹿明神参集殿

当社境内のかつての姿

かつて辺りは東南西方を水田に囲まれ、その中央の一丈程高い所に当社が鎮座していた。また、境内は船の形をしていて数十に及ぶ樫の古木が繁茂し、参道中央には船の帆のように銀杏の大木が立っており、「舟形の森」「樫の森」とも呼ばれていた。しかし現在ではその銀杏もなく、地形の変動などもあってかつての面影は見られなくなっている。一方で、当社の地形が前方後円墳にも似ていることから昭和37年(1962年)8月に社殿東側の発掘調査が行われ、縄文時代後期の「平地式住居址」が発見されている[26][注 7](詳細は後節「#鈴鹿遺跡」を参照)。さらに、境内の樫の古木は古いもので樹齢900年ともいわれ座間市原始林の一部となっている[2]。

祭事・年間行事

雨乞い神事「竜神いじめ」

かつては雨乞い神事の「竜神いじめ」が行われていた[21]。神職が雨乞いの祈りを捧げた後、氏子たちが御神酒を頂き、さらに底に竜を彫った敷石がある弁天池の水を汲み出すことによって水を干された竜神に雨を降らせるという神事であったが[1][12]、詳細な資料は現存していないという[21]。

かつての例祭日

『新編相模国風土記稿』によると例祭は6月7日〜14日に行われ、この際には当社に合祀されていた牛頭天王の神輿を仮屋に遷した後、星谷寺の僧が来て法楽をしていたという[4][27]。

神輿巡行の始まりついて

祭礼の際の神輿については、疫病が流行した際に病気平癒のお祓いのため村々を廻ったのが始まりとされる[3]。

御祈祷・冠婚葬祭

当社では御祈祷や神前結婚式、七五三、初宮詣等を受け付けている。詳細は「当社公式サイト」を参照。

アクセス

その他

鈴鹿遺跡

当社本殿東側で発見された縄文時代後期(今からおよそ4000〜3500年前)の平地建物跡および境内の一部(本殿を含む境内北側約900平方メートル)遺跡包蔵地は昭和57年(1982年)1月25日、「鈴鹿遺跡(住居址及び遺跡包蔵地)」として座間市指定史跡に指定されている[26]。建物跡の西側半分は本殿の下にあるため形状や大きさなどの全容については分かっていないが、形状は方形(長方形)であると考えられている。また、この時代の建物跡としては竪穴建物が多い中で平地建物跡はこれまでに発見例が少なく大変貴重なものである。建物跡からは柱穴2箇所や中央よりやや北側にて6個の河原石による円形の石囲炉(直径約40センチメートル)、さらに多数の縄文土器片、石斧数点などが発見されている。一方、境内でも土師器や須恵器の細片、直刀片など古代の遺物が発見されていることから、この他に数多くの遺跡を包蔵している可能性も考えられる。なお、この遺跡については調査の後に原形のまま埋め戻され、保存されている[28]。

鈴鹿の小径と周辺の湧水地

当社の境内に沿って東側の傍には「鈴鹿の小径」(すずかのこみち)と呼ばれる小道が整備されている。小径沿いには当社の他に龍源院という寺院があり、寺の境内裏手(MAP)には湧水池がある。湧水は「龍源水 ホタルの公園」を経由してそのまま小径の端を流れる水路に合流しており、この水路にはホタルも生息している。なお、この界隈では他にも複数の湧水地が存在しており、龍源院の湧水から北西に約70メートル地点(MAP)の通称ボンゼン山と呼ばれる丘の麓(クレソンが茂る民家敷地内、龍源院の湧水とは同一斜面およびほぼ同じ標高)から湧き出る「鈴鹿の泉」(吉川の泉)、さらに入谷1丁目の最北部に位置する円教寺付属の番教堂傍(座間市入谷1-3245/MAP)には「番神水」(名称は番教堂が由来)と呼ばれる湧水地がある[29]。

  • 鈴鹿の小径

    鈴鹿の小径

  • 鈴鹿の小径沿いにある「龍源水 ホタルの公園」、龍源院の湧水が合流している

    鈴鹿の小径沿いにある「龍源水 ホタルの公園」、龍源院の湧水が合流している

  • 鈴鹿の泉(※湧水地点は民家敷地のため柵があり立ち入り不可)

    鈴鹿の泉(※湧水地点は民家敷地のため柵があり立ち入り不可)

神井戸

県立座間高校の北東側交差点角(MAP)にある泉。神井戸(かめいど)とは、神から与えられた生活のための水の湧く井戸を意味し、古くから周辺住民の飲料水、米や野菜の洗い水として利用されてきた。現在でも野菜などの洗い水として利用されており、かつてに比べ面積は約1/10ほどにまで縮小したとはいえ、夏季には日量632トン、冬季には102トンほどの湧出量がある[30]。当社の祭礼の際には神輿を担いだ者が着用していた白丁をこの湧水で清め神社に返納するしきたりが江戸時代より現在まで続いている[31][32]。

  • 神井戸湧水

    神井戸湧水

兼務社・境外末社

前述の諏訪明神(座間市入谷、『座間古説』では当社の古社とされる[6])を含めて当社には10社の兼務社が存在する。兼務社の詳細については当社公式サイト内「兼務神社案内」を参照のこと。

また、境外社として皆原金毘羅神社(座間市入谷5丁目/MAP)[33]、諏訪神社(入谷1丁目)、神明社(入谷5丁目)、三峰神社(入谷3丁目)がある[19]。

脚注

注釈

  1. 『かながわの神社・ガイドブック』では、北条早雲が焼失した社殿を再建したと記載されている[1]。
  2. 元は同じ村で「座間村」と呼ばれ、座間郷(戦国時代には7ヶ村あった)の中心となっていた。『座間古説』によれば、寛文2年(1662年)頃に座間の宿村と入谷村に分かれたとされる[6]。また、『新編相模国風土記稿』では久世大和守廣之に賜われた寛文4年(1664年)の御朱印目録に2村(座間宿村と座間入谷村)の名が記されていることから、この頃には既に分村していたとしている[10][11]。
  3. ^ a b この辺りでは新田宿にも諏訪明神が存在するが、ここでは入谷の「梨の木の諏訪坂(梨木坂)の傍ら」に鎮座する諏訪明神[13]を指している。
  4. 『座間古説』については、「神奈川県立の図書館:地誌#27 座間古説 (PDF) 」の解説も参照。
  5. 『座間古説(座間市史資料叢書1)』収録の「座間古説について」(p.38)によると、伊勢の宮川より鈴鹿明神に付き添って当地にやってきた人々の子孫とされる。
  6. この頃には、6月13日から勝坂の有鹿谷に向かい「水もらいの神事」を行った後一泊し、16日に還御していた[15]。
  7. 神奈川県神社庁の当社解説ページ「御由緒」や当社公式サイトの「神社由緒」などには、「昭和39年(1964年)に社殿東側草地の発掘調査が行われ、1500年以前の地下式住居址(約7坪)が発見された」との記載もあり[2]。

出典

  1. ^ a b c d e f g 『かながわの神社・ガイドブック 〜こころの散歩道〜』p.97
  2. ^ a b c d e f 鈴鹿明神社(神奈川県神社庁)
  3. ^ a b c d e 当社境内案内板「鈴鹿明神社」(座間市教育委員会 昭和58年 (1983年) 3月)由緒書きより
  4. ^ a b c d e f 新編相模国風土記稿 座間宿村 鈴鹿明神社.
  5. ^ a b 『座間市史 5 通史編 上』p.649
  6. ^ a b c d e f g h i j k 『座間古説(座間市史資料叢書1)』,「座間古説」(pp.7-9)/「座間古説について」:主な内容(pp.37-39)/「付録」:座間古説現代文訳(pp.57-60)
  7. 『神奈川県の歴史散歩・上』pp.159-160
  8. ^ a b 『座間市史 5 通史編 上』p.651
  9. 『神奈川県の地名(日本歴史地名大系第14巻)』p.475
  10. 『座間古説(座間市史資料叢書1)』,「座間古説について」pp.37-38
  11. 「澁谷庄 座間宿村」『大日本地誌大系』 第38巻 新編相模国風土記稿3巻之66 村里部高座郡巻之8、雄山閣、1932年8月、337頁。NDLJP:1179219/174。normal 
  12. ^ a b c 有鹿神社と鈴鹿明神(歩いて郷土の歴史を学ぶ会)
  13. ^ a b 諏訪明神(座間市入谷)(神奈川県神社庁)
  14. ^ 『座間市史 5 通史編 下』pp.413-414
  15. ^ a b 『座間古説(座間市史資料叢書1)』,「座間古説について」p.38
  16. ^ a b 『座間市史 5 通史編 下』p.414
  17. ^ a b 『座間市史 5 通史編 下』p.415
  18. ^ ちょっと寄り道(有鹿神社、海老名市) (マイタウンクラブ:あつぎ地域SNS 2009年10月4日)
  19. ^ a b 『座間市史 5 通史編 下』p.412
  20. ^ a b 神社の"摂社・末社"(鈴鹿明神社「社務日記」 2015年2月24日)
  21. ^ a b c 池の鯉(鈴鹿明神社「社務日記」 2014年2月23日)
  22. ^ 当社末社の厳島神社・小池白髪弁財天社の例祭斎行(鈴鹿明神社「社務日記」 2015年3月3日)
  23. ^ 現地案内「三峰神社由来について(縁起)」(主管 星の谷氏子会)
  24. ^ 座間散歩 1 三峰神社(神社とお寺の参拝日記 2014年12月29日)
  25. ^ 三峰神社(神奈川県座間市入谷)(神社訪問記 2013年7月15日)
  26. ^ a b 生涯学習課市史文化財担当 (2020年2月3日). "鈴鹿遺跡(住居址及び遺跡包蔵地)". 座間市. 2022年11月7日閲覧。
  27. ^ 『座間市史 5 通史編 上』p.648
  28. ^ この段落は、境内案内板および下記ウェブサイトによる。
  29. ^ この段落は、現地案内板および『新板 座間の湧水』による。
    • 現地案内板「番神水」(座間市教育委員会 昭和57年 (1982年) 3月)
    • 『新版 座間の湧水』pp.22-26
  30. ^ "湧水(ゆうすい)案内図". 座間市. 2015年3月24日閲覧。
  31. ^ 現地案内板「神井戸」(座間市教育委員会 昭和58年 (1983年) 3月)
  32. ^ 『新板 座間の湧水』pp.26-27「神井戸湧水(相模川河川段丘下)」
  33. ^ 境外末社金比羅神社の例祭斎行(鈴鹿明神社「社務日記」 2014年10月10日)

参考文献・資料

[編集]
  • 神奈川県神社庁、1997、『かながわの神社・ガイドブック 〜こころの散歩道〜』、かなしん出版
  • 鈴鹿明神社(編)、2015、「鈴鹿明神社由緒」、『鈴鹿暦』平成27年版、
  • 座間市教育委員会、1983、「鈴鹿明神社」(境内案内板、1983年〈昭和58年〉3月)、座間市教育委員会
  • 座間市教育委員会(編)、2014、『新版 座間の湧水』、座間市教育委員会〈座間市文化財調査報告書第19集〉
  • 座間市・座間市教育委員会教育部生涯学習推進課(編)、2010、『座間市史 5 通史編 上』、座間市
  • 座間市・座間市教育委員会教育部生涯学習推進課(編)、2014、『座間市史 5 通史編 下』、座間市
  • 座間市・座間市教育委員会教育部生涯学習推進課(編)、2001、『座間市史 1 原始・古代・中世資料編』、座間市
  • 座間市立図書館市史編さん係(編)、1987、「座間古説について」、『座間古説』、座間市〈座間市史資料叢書1〉
  • 平凡社(編)、1984、『神奈川県の地名』、平凡社〈日本歴史地名大系第14巻〉
  • 神奈川県高等学校教科研究会社会化部会歴史研究会(編)、2005、『神奈川県の歴史散歩・上』、山川出版社
  • 「澁谷庄 座間宿村 鈴鹿明神社」『大日本地誌大系』 第38巻 新編相模国風土記稿3巻之66 村里部高座郡巻之8、雄山閣、1932年8月、338頁。NDLJP:1179219/175。 
  • 鈴鹿明神社(神奈川県神社庁)
  • 神社由緒(当社公式サイト「鈴鹿明神社・鈴鹿明神参集殿」内)
  • 有鹿神社と鈴鹿明神(歩いて郷土の歴史を学ぶ会)

関連項目

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外部リンク

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市民情報コーナー 刊行物一覧|座間市ホームページ座間市史資料叢書1 座間古説 930円 生涯学習課

座間市史資料叢書1 座間古説

930円

生涯学習課

https://www.city.zama.kanagawa.jp/shisei/koho/kankoubutsu/1005104.html

秋葉山古墳群 - Wikipedia

秋葉山古墳群 - Wikipedia

秋葉山古墳群

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秋葉山古墳群(あきばやまこふんぐん)は、神奈川県海老名市にある古墳群。2005年7月14日に国の史跡に指定された。

概要

秋葉山古墳群という名の由来は、第二号墳後円部頂上に火を防ぐ神を祭った「秋葉社」という祠があったため、第二号墳のことを秋葉山と呼んでいたのが古墳群全体の名称となったことによる。

古墳群は座間丘陵の標高75~80メートルの尾根沿いに、第一号墳から第六号墳の、計6基の古墳が確認されている。秋葉社があった第二号墳の後円部頂上は、標高84.6メートルの海老名市最高地点である。第一号墳から第六号墳以外に近年の開発で消滅した古墳もあるようで、また尾根沿いに座間市内に入った場所にも古墳があるとの説もあるが、未確認である。

6基の古墳の内訳は、前方後円型墳墓が1基、前方後円墳が2基、前方後方墳が1基、方墳が1基である。これまで学術調査がほとんど行われていない6号墳は、今のところ墳形は不明である。

古墳群の発見と発掘の経緯

秋葉山古墳群の存在は明治末期から知られており、明治~大正期の記録を見ると、現存しない古墳の存在とともに、現状では円墳形をしている第三号墳に前方部が存在していたことがわかる。

1960年代半ば以降、古墳群周辺でも宅地開発が進みだしたため、1969年に墳丘の測量調査が行われた。その後1987年から2003年に至るまで、12次に渡る発掘調査が実施された。その中で1988年、区画整理事業の開始に伴う開発事前調査が行われ、神奈川県内でも最古級の古墳群である可能性が指摘されたが、調査後、第三号墳と第五号墳の周濠の一部が破壊された。

なお、秋葉山古墳群は未調査の第六号墳を除いて墳丘部の調査は実施されてきたが、これまでのところ古墳の埋葬施設本体の調査は行われていない。

特徴

秋葉山古墳群の特徴としては、相模川流域の古墳では大きいが、葺石、段築、円筒埴輪が見られないことが挙げられる。このことから秋葉山古墳群の被葬者として推定される相模川流域の首長は、在地の首長としては有力であったが、ヤマト王権内の地位的にはあまり高くなかったことが想像される。神奈川県内でも、秋葉山古墳群に少し遅れて造営された長柄桜山古墳群では葺石と円筒埴輪の存在が確認されており、ヤマト王権との結びつきの強さや地位が、秋葉山古墳群に葬られた相模川流域の首長と比べて高かったと見られる。

秋葉山古墳群の各古墳は、まず座間丘陵を形成する富士黒色土と関東ローム層を削り取って古墳の形を成形し、その上に墳丘部を盛り上げて築造された。古墳群の立地としては、相模川流域の平野部を望む座間丘陵の高台にあり、相模川と、現在の国道246号に沿ったコースであったと想定される武蔵方面へ向かう道との交点にも近く、当時の生産と居住の拠点とともに交通の要衝を望む高台という場所を選び、古墳群が造営されたと見られている。

古墳群の中では、まず3世紀に第三号墳と前方後方墳である第四号墳、それから3世紀末から4世紀初めにかけて前方後円墳である第二号墳、最後、4世紀に方墳である第五号墳と前方後円墳である第一号墳が造営されたと見られている。以後、秋葉山古墳群では古墳が全く造られなくなった。これは秋葉山古墳群の近くから古墳群を造った首長がいなくなってしまったのか、それとも古墳を造ることに規制が加えられるようになったためか、原因はいくつか考えられているものの、今のところ不明である。

ただ、海老名市内には秋葉山古墳群の後に造営されたとみられる瓢箪塚古墳を始めとする上浜田古墳群があり、瓢箪塚古墳からは秋葉山古墳群の第二号墳から出土したものと似たような形をした円筒型の土器の破片が見つかっていることもあって、秋葉山古墳群と何らかの関係があった可能性が指摘されている。

また秋葉山古墳群がある相模川中流の東岸では、これまでのところ古墳群築造の母体となったと考えられる大きな集落が検出されていない。この点については相模川中流西岸も含んだ地域で秋葉山古墳群を築造したとの説もあるが、相模川中流域の西岸にも出現期の古墳が見られる点から、相模川東岸に未発見の秋葉山古墳群を造営した人々が暮らしていた集落があるとの説もある。いずれにしても秋葉山古墳群は3世紀~4世紀にかけての相模湾周辺で最も規模が大きな古墳群であり、地域を代表する人物を葬ったものであると見られる[1]。

発掘調査の中で秋葉山古墳群は、3世紀から4世紀にかけての古墳出現期から前期にかけての古墳群であることが明らかになった。特に第三号墳は纏向型の前方後円墳とも呼ばれる[要出典]、ややいびつな後円部に小さな前方部がついた形をした古墳であり、東日本の中でも最古の前方後円形をした古墳の一つで、3世紀に造営されたと考えられている。当時、古墳群の周辺である相模湾周辺の地域では弥生式の方形周溝墓が造られていたが、第三号墳の規模は方形周溝墓の規模を遥かに凌駕する大きなもので、また発掘された土器などから考えて、第三号墳は相模川流域の在地の勢力から、いち早くヤマト王権との連携を進め、周辺地域を統合することとなった首長の墓であると見られている。

そして第二号墳、第一号墳と時代が下るに従って、定型的な前方後円墳の形に近づいている。また前方後方墳である第四号墳、方墳である第五号墳と、秋葉山古墳内の中でも墳形に変化が見られる。現存6つの古墳で構成される秋葉山古墳群であるが、古墳出現期の古墳の変遷と多彩な墳形を見ることができる。

秋葉山古墳群は、千葉県市原市にあった神門古墳群などと並び、東日本における最古級の古墳群のひとつであり、南関東における出現期古墳、そして当時の社会を知る上での重要な遺跡と評価され、2005年7月14日に国の史跡に指定された。

各古墳

秋葉山古墳群で一番南東側にある第一号墳から、座間丘陵の尾根伝いに第二号墳、第三号墳、第五号墳、第四号墳、第六号墳という順番に並んでいる。第一号墳から第四号墳までは、50メートル以内の短い間隔で並んでいる。第六号墳は第四号墳から約250メートル離れた場所にあり未調査となっている。第六号墳以外が2005年に国の史跡に指定されている。

第一号墳

第五号墳とともに秋葉山古墳群では最後の4世紀に造営されたと見られている。整った形をした定型的な前方後円墳で、墳丘の長さは59メートル、後円部の直径は33メートル、前方部の長さは26メートル。前方部の高さは2.8メートル、後円部の高さは6.3メートル。周濠は見られないが前方部正面にのみ溝が掘られている。

小型の丸底をした土器と鉄鏃が出土している。地元相模の土器が見られる第二号墳や第三号墳に対して、第一号墳から出土した土器は日本各地で出土しているものと共通である。

第二号墳

3世紀末~4世紀初頭に造営されたとみられる前方後円墳。墳丘の長さは50,5メートル、後円部の直径は33メートル、前方部の長さは17.5メートル。前方部の高さは4.6メートル、後円部の高さは7.7メートル。後円部の大きさに比べて前方部が短く、定型的な前方後円墳とはいい難い。墳形はむしろ第三号墳と同じく纏向型の前方後円墳に近いが、前方部の高さがかなり高いこと、後円部が円形をしている点など纏向型の前方後円墳に当てはまらない特徴もある。一号墳と同じく周濠は見られないが、前方部の正面にのみ溝が掘られている。

出土品としては壺などの土器類があり、地元相模の土器と並んで東海方面や関西方面から搬入されたと見られる土器が見つかっている。土器の中に水銀朱が付着したものも認められている。出現期の古墳から発掘される土器から水銀朱が検出される事例は多く、水銀朱は葬送儀礼に用いられた可能性が高い。また他に類例が少ない、4点の円筒型の土器が出土した。これは弥生時代末に岡山県を中心に分布し、その後、円筒埴輪へと進化していく特殊器台と呼ばれる土器の影響を受けて作られたものと考えられている。

第二号墳から出土した土器の中には、意図的に破砕された状態で出土したものが多く見られる。円筒型の土器も破砕された後に熱を受けた形跡が残っており、破砕後に後述する火を用いた祭祀を行い、その後撒かれたものと思われるが、多くの土器が破砕された理由については今のところよくわかっていない。

また第二号墳で発掘された土器には火の使用跡が見られるものがあり、古墳のくびれ部分と前方部の一部で、焚き火の跡や炭化物も見つかっており、火を用いた祭祀が行われたものと推定されている。第二号墳から出土した炭化物を用いて、AMS法による放射性炭素年代測定を行ったところ、250年~325年との年代が出た。第二号墳は墳形や出土した土器から、秋葉山古墳群の中でも中期の、3世紀末~4世紀初頭に造営されたと見られており、年代測定の結果と比較的良く一致している。

第三号墳

ややいびつな後円部に小さな前方部が繋がった、前方後円形をした古墳。第四号墳とともに3世紀、秋葉山古墳群では初めの頃に造営された。前方部は昭和30年代に削平されて現存していないが、大正時代の記録から推定すると墳長は約51メートル、第二号墳とほぼ同じ墳長と考えられている。後円部は直径38~40メートルとやや不定形をした円形であると見られ、第二号墳以上に前方部の割合は小さかったものと推定される。後円部の高さは7.7メートルと見られている。また第三号墳には周濠の存在が認められている。

発掘調査の結果、墳頂部には9メートル×6~7メートルという大きな墓坑があると推定されているが、墓坑内にあると見られる埋葬施設の発掘はこれまでのところ行われていない。墓坑の上からは第二号墳と同じく、水銀朱が付着した土器、それから大型の壺など、埋葬儀礼に伴うと思われる土器が出土した。また墓坑上からは礫がまとまって検出されており、墓坑上に礫を並べていた可能性がある。

土器の中には弥生時代後期後半に相模地方独自に発達した壺に加えて、伊勢湾岸地域から広まった高坏がある。古墳時代開始前後に伊勢湾型の土器が広がる現象は東日本の太平洋岸沿岸各地で確認されていて、第三号墳の被葬者も相模川流域の在地勢力の中からいち早く外来の文化を取り入れ、相模川流域に大きな勢力を誇るようになった首長であることが想定される。

第三号墳の墓坑上で見られる土器や礫は、弥生式の墳丘墓や古墳時代前期前半の古墳にしばしば見られ、定型化した前方後円墳では見られなくなる特徴であり、第三号墳の纏向型の前方後円墳とも呼ばれる前方後円型の墳形とともに、弥生時代と古墳時代の過渡期の特徴を示すものと言える。

第五号墳

一辺約20メートルの方墳。墳丘の高さは約5.4メートル。第一号墳とともに秋葉山古墳群では最後に造営されたと見られている。幅約4メートル、深さ約1メートルの周濠があり、第五号墳を全周している。小型の丸底土器や器台など、4世紀のものとされる土器が出土している。

第四号墳

全長37.5メートルの前方後方墳。前方部の長さは12.7メートル、後方部は24.8メートル。前方部の高さは2.8メートル、後方部は5.3メートル。後方部には周濠が確認されているが、前方部の一部は周濠が無い可能性が高い。出土品は少なく、壺の破片が出土している。壺の破片の様式は秋葉山古墳群の中でも古い土器であるとされる。

地山を削り土砂を盛り上げて高い墳丘を造った第一号~三号墳と異なり、第四号墳は全体的に墳丘が低く、弥生時代の前方後方型をした周濠墓より規模的には大きいものの、形態的に大きな違いが見出せない。出土品の少なさから不確実さは残るが、弥生時代の前方後方型周濠墓との形態的な類似から、また一般的に同一の古墳群の中では前方後方墳から前方後円墳の築造へと進んでいくことから、第三号墳と同じ頃かやや先行する3世紀に造られた、秋葉山古墳群の中でも古い古墳と見られている[2]。

第六号墳

第一~第五号墳の中で最も北側にある第四号墳の北、約250メートルにある。これまで詳しい調査が行われておらず、詳細は不明である。なお第六号墳の北側の座間市内にも古墳があるとの説もあるが、未確認である。

  • 秋葉山古墳群第二号墳、前方部から後円部方向を撮影

  • 秋葉山古墳群第三号墳、現存する後円部

  • 秋葉山古墳群第四号墳、前方部脇から後方部方向を撮影

  • 秋葉山古墳群第五号墳

  • 秋葉山古墳群第六号墳

脚注

  1. 山口 正憲「相模湾岸 秋葉山古墳を中心に」『東日本における古墳の出現』70、71頁
  2. 山口 正憲「相模湾岸 秋葉山古墳を中心に」『東日本における古墳の出現』62頁

参考文献

  • 『秋葉山古墳群』秋葉山古墳遺跡調査団、1991年。
  • 『秋葉山古墳群第一、第二、第三号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会、2002年。
  • 『えびなの歴史 海老名市史研究第14号』海老名市、2004年。
  • 『秋葉山古墳群第三、第四号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会、2004年。
  • 山口 正憲「相模湾岸 秋葉山古墳を中心に」『東日本における古墳の出現』六一書房、2005年。
  • 『史跡秋葉山古墳群』海老名市教育委員会、2006年。
  • 『武蔵と相模の古墳 季刊考古学別冊15』雄山閣、2007年。

関連項目

外部リンク

◆ 徐福 (方士が見た理想郷) ~12 (藤沢市編・寒川神社) | かむながらのみち ~天地悠久~

◆ 徐福 (方士が見た理想郷) ~12 (藤沢市編・寒川神社) | かむながらのみち ~天地悠久~

◆ 徐福 (方士が見た理想郷) ~12 (藤沢市編・寒川神社)

相摸国 寒川神社 *フリー写真素材より

◆ 徐福 (方士が見た理想郷) 

~12 (藤沢市編・寒川神社)

徐福伝承というものを受け入れつつ記事を進め、最後の最後で否定しようかと目論んでおりましたが…

伝承のあまりの過大解釈にだんだんと我慢ならず、途中に第9回目の記事で「富士古文書」を取り上げたことで、

先ずは一旦甘んじて受け入れておこうという気が、完全に失せてしまいました。

だんだんと伝承への批判的な記事となってきていることをお許し頂けましたらさいわいです。

ただし第7回目の記事、紀伊国熊野までの伝承は否定しません。伝承を根本から否定できないので。

それ以降の伝承があまりに酷い…

ですから熊野詣の際には必ず徐福に手を合わせております。

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■過去記事

* ~ 1 … 始皇帝を欺く!
* ~ 2 … 神薬を求め出航!
* ~ 3 … 九州の徐福伝承
* ~ 4 … 四国の徐福伝説
* ~ 5 … 新宮市 前編
* ~ 6 … 新宮市 後編
* ~ 7 … 熊野市波田須編
* ~ 8 … 三河地方編
* ~ 9 … 「富士古文書」編
* ~10 … 富士吉田市編
* ~11 … 富士河口湖町・山中湖村編

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■ 藤沢市の徐福

藤沢市は神奈川県の中央南に位置し、相模湾に面する地域。南端の「江の島」が有名。訪れたことのない地ですが。

かつての相摸国高座郡(たかくらのこほり)。現在の綾瀬市・海老名市・相模原市・座間市・茅ケ崎市・大和市・高座郡(こうざぐん)寒川町が含まれます。

なお「相摸国」は正式な表記を用いました。木篇の「模」ではなく、手篇の「摸」が古代の表記。木簡には「摹」とあるようですが。

藤沢市内の妙善寺という仏教施設内に、徐福の子孫であると名乗る福岡家の「福岡子孫累代之墓」があるようです。その墓碑には「徐福」の名が記されているとのこと。

またその近くには白旗神社という社が鎮座しています。社名からして徐福の後裔とされる秦氏の関連が考えられます。

もちろん秦氏が徐福の後裔であるというのは、何ら立証されたわけでもなく、あくまでも「徐福信者」の一部の伝承に過ぎません。

■ 謎の寒川神社

その「高座郡」に鎮座するのが寒川神社。式内名神大社であり相摸国一ノ宮。ご祭神は寒川比古命・寒川比女命。

参拝したこともなければ、詳しく調べたこともないのですが、由緒がはっきりせず、ご祭神も不明の謎の社という認識くらいはあります。

そしてネット上ではもう笑えるくらいに、皆さん根拠も無しに適当なことを書いては上げています。発想が豊かというか(笑)

嘘の情報の上にさらに嘘を重ね上げていき、あたかもそれが正しいかの如く…。

原因は焼失等で縁起に関わる由緒等がほとんど存在しないため。またご祭神も記紀等文献には一切登場しないため。したがっていかようにも創作が可能。

もちろん創建時期は不明ながら、雄略天皇の御宇に幣帛の奉幣があったことから、それ以前には遡ります。

相摸国はヤマト王権の影響が強い地域であると思われ、また大和朝廷の東国経営の拠点となっていたように窺えます。

これはこの地に貴族や寺院の封戸が多いこと、渡来人が多いこと、陸奥国鎮守府の「公廨(くがい)」(官人俸禄を収蔵する建物)を負担していたことなどから(「官人俸禄」とはお給料のこと)。

「先代旧事本紀 国造本紀」には、成務天皇の御世に武刺国造(むさしのくにのみやつこ)の祖である神伊勢都彦の3世孫である弟武彦命が、初代相武国造に任じられたとあります。

また倭建命の東征神話に相武国造が登場します。記には相武国造の火攻めに逢うも、これを草那藝剣で難を免れ、「焼遺(やきづ、=焼津)」の地名由来譚を載せています。ここでは国造を迎え火で焼き殺したと。

一方で紀には日本武尊が駿河国「焼津」で地元の賊に火攻めに逢うも、天叢雲剣が独りで草を薙ぎ草薙剣と名付けたとあります。相武国造は登場しておらず、舞台も駿河国。

寒川神社の近くからは縄文時代の遺跡が発見されています。想像するに当地には縄文時代の信仰があったが、相武国を開拓した国造が祖神を祀った社ではないかと。つまり神伊勢都彦の3世孫である弟武彦命の祖神ではないかと。

ここでは神伊勢都彦の話をするのは控えましょう。伊勢国、出雲国、宝賀寿男氏は邇藝速日と同神などと怪説をも出しており、壮大なスケールとなってしまうので。

◎「富士山」に居住していた徐福

なぜ寒川神社をこの記事で取り上げたのかというと、徐福伝承があるため。

第9回目の記事でも取り上げたように、「富士古文書」に徐福伝承があります。一般には「偽書」と称される「古史古伝」の一。

そのなかでも内容はかなり酷く、あまりにお粗末なもの。「ホツマツタヱ」や「ウヘツフミ」もビックリの代物。

編纂者は史実を書こうとしたのではなく、物語を書こうとした?それなら納得…。でもそれなら面白みには欠ける…。

とにもかくにもそこには、

━━「富士山」を目指した徐福一行は「富士高天原王朝」に到着し、不二阿祖山太神宮を初め各七廟を拝し、大室中室に居住した━━(大意) と記されています。

笑ってはいけません!

こんなものでも真に受けている人たちが一定数存在するので。不二阿祖山太神宮もその一。この内容を由緒として掲げているようです。

ただし「富士高天原王朝」はさておき、徐福が「富士山」に居住していたというのは、可能性がゼロとは言い切れません。

◎徐福子孫たちの移住

「富士山」は延暦十九年(800年)から数回に渡り大噴火があったとされます。これは「日本紀略」という書によるもの。

私撰書であり、編者も不明ですが、「富士古文書」や「ホツマツタヱ」などとは異なり信用のおける書。

以下は伝承。出所は不明。

その延暦十九年の噴火の際に徐福子孫たちは移住を余儀なくされ、その際に創建したのが寒川神社であると。

もちろんそのようなことがあろうはずはあり得ません。それは式内名神大社に列格しているため。徐福子孫の社では到底無理。

また成務朝の幣帛の奉幣はどうなったのか、桓武天皇の御世にも幣帛を受けています。

さらに上述の白旗神社へも移住したとするものもあります。ご祭神は寒川神社と同じく寒川比古命・寒川比女命。そこから勧請されたと伝わります。「富士古文書」によると、徐福の長男が福岡氏。そのすぐ近くに「福岡子孫累代之墓」があります。

こればかりは当事者たちがそうだと名乗っておられるので、どうしようもないことですが。

寒川神社 楼門 (2023年 迎春ねぶた祭) 

*フリー写真素材より

*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。

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