2024年4月30日火曜日

国立公文書館さんによるXでのポスト「儀同三司母」



 
 
国立公文書館
⁦‪@JPNatArchives‬⁩
大河ドラマ #光る君へ#板谷由夏 さん演じる藤原道隆の妻・高階貴子。百人一首に採られた名前「儀同三司母」のほうが有名かもしれませんね。息子の伊周の官職・准大臣の唐名に由来します。画像は正保4年版『新古今和歌集』より、百人一首に採られた「忘じの…」の和歌。digital.archives.go.jp/img/3990204/24 pic.twitter.com/ttY7zt1aTZ
 
2024/04/30 12:00
 
 

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 備忘録:率川阿波神社

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 備忘録:率川阿波神社

三輪叢書より率川若宮阿波神社(率川阿波神社)の項を引用すれば。

率川若宮阿波神社一座 舊跡今在於西 城戸坊南側、
當初祭神事代主命也 

古事記 曰大國主神娶神尾楯比賣命生子事代主神、云云、延喜式神名帳上曰大和國
添上郡率川阿波神社 一座小、 
同下卷曰阿波國阿波郡建布都神社一座、事代主神社一座小、 
社傳曰寶龜二年冬比大納言藤原是公夢云吾狹井御子神也、汝氏神建布都神 社考劔之神 ○霊魂也 共住阿波國互有相親而令皇孫命依召集項 吾與建布都神共來臨于帝都歟 、建布都神欲留三笠山,於是吾等思居住率川邊宜敬祭之是公依夢告造神殿、自阿波 勸請之仍云阿波神也 

とありますので阿波郡建布都神社と事代主神社より勧請されたことが伺えます。

建布都神については、藤原是公の夢に「我は狭井御子神である。お前の氏神の神建布都神と共に阿波国に住んでいるが、今皇孫命の招集により神建布都神と共に都にいる。建布都神は御笠山に、我は率川の辺に住みたいと思うので祀れ」と告げられたので、社殿を建て、阿波国から勧請して祀った

※三輪叢書 出版者. 大神神社社務所 三輪神道 奈良県三輪山麓(さんろく)の大神(おおみわ)神社の縁起(えんぎ)を基として形成された神道の資料。『三輪大明神縁起』(『続群書類従神祇(じんぎ)部』所収)がもっとも端的、ほかに『三輪叢書(そうしょ)』(五巻)、『大神神社史料』(10巻)がもっとも新しく詳細である。

http://goutara.blogspot.com/2023/07/blog-post.html

備忘録:率川阿波神社

 お見限りでございます。
ながらく書いておりませんでしたのでリハビリ代わりにびぼーろくなど。

率川神社(いさがわじんじゃ)は、奈良県奈良市本子守町にある神社。大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい、また子守明神とも呼ばれる。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載される式内小社。

推古天皇元年(593年)2月3日、大三輪君白堤が勅命により神武天皇の皇后である媛蹈韛五十鈴姫命を祭神として奉斎したとされ、奈良市最古の神社という。後に元正天皇によって本殿の右側には媛蹈韛五十鈴姫命の父神である狭井大神を、左側には母神である玉櫛姫命が祀られるようになった。



率川阿波神社

率川神社末社の住吉社と春日社の合間に鎮座する。

率川神社の境内に鎮座する末社で、式内社。

宝亀2年(771年)、大納言是公による建立と伝わり、仁寿2年(852年)、従五位下を授けられている。『延喜式神名帳』に「率川阿波神社」と記載される式内小社。祭神は事代主命で、一般に恵比須神と言われ、6月17日の例祭とは別に1月5日に初戎が行われる。


率川神社境内にあり、その本殿瑞垣外東に鎮座の小祠を式内の当社に比定されている。淳保二十年(1735)無名園古道翁の書である『奈良坊目拙解』に「率川阿波神社旧跡は南側東方より第二軒目の人家裏をいい、当時松樹一株存し神木たり。甚だ廃亡、嘆くべし悲しむべし」とある。祭神は事代主命で、子守明神の若宮である。宝亀二年(771)大納言是公の創祀と伝えられ(「奈良坊目拙解」)、「文徳実録」には、仁寿二年(852)十一月辛丑、従五位下の神位を授けられたと出ている。天文元年(1532)の一揆や度々の火難に廃絶、大正九年現位置に社殿を再建された。

-奈良県史(神社)より-

画像は「奈良坊目拙解」五巻より。

ちなみに

奈良坊目拙解」

無名園古道(村井勝九郎)著で成立は享保二十年(1735年)

南都七郷にはじまる各町の町名由来、寺社堂塔の由緒・古伝・現況など約二百種の古典書目から引用傍証、現地の古老の説を採訪した漢文体の地誌。博覧・詳細な記述で奈良市内坊目に関する書物では内容豊富。

というものです。

まあ、ざっくり言えば上の立て札にあります様に

摂社 率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)

御祭神 事代主神(ことしろぬしのかみ)

御例祭 6月17日

初戎祭 1月5日

御由緒

この御社は、平安時代の「延喜式」にも記され、御祭神・事代主神は本社の大物主大神の御子神で、俗に恵比須様と申し上げます。

社伝によると宝亀二年(771)藤原是公が 夢のお告げにより 阿波国より勧請したと伝えられています。

1月5日の初戎祭は奈良で一番古い福徳成就の祭で 商売繁盛をはじめ生活守護の神様として多くの参拝者で賑わいます。

また、率川神社の由緒書に「奈良市最古のえびすさん」と記される。

さて、ここで

ちょっと読みにくそうなので翻刻版を


三輪叢書より率川若宮阿波神社(率川阿波神社)の項を引用すれば。

率川若宮阿波神社一座 舊跡今在於西 城戸坊南側、

當初祭神事代主命也 

古事記 曰大國主神娶神尾楯比賣命生子事代主神、云云、延喜式神名帳上曰大和國

添上郡率川阿波神社 一座小、 

同下卷曰阿波國阿波郡建布都神社一座、事代主神社一座小、 

社傳曰寶龜二年冬比大納言藤原是公夢云吾狹井御子神也、汝氏神建布都神 社考劔之神 ○霊魂也 共住阿波國互有相親而令皇孫命依召集項 吾與建布都神共來臨于帝都歟 、建布都神欲留三笠山,於是吾等思居住率川邊宜敬祭之是公依夢告造神殿、自阿波 勸請之仍云阿波神也 

とありますので阿波郡建布都神社と事代主神社より勧請されたことが伺えます。
建布都神については、藤原是公の夢に「我は狭井御子神である。お前の氏神の神建布都神と共に阿波国に住んでいるが、今皇孫命の招集により神建布都神と共に都にいる。建布都神は御笠山に、我は率川の辺に住みたいと思うので祀れ」と告げられたので、社殿を建て、阿波国から勧請して祀った

※三輪叢書 出版者. 大神神社社務所 三輪神道 奈良県三輪山麓(さんろく)の大神(おおみわ)神社の縁起(えんぎ)を基として形成された神道の資料。『三輪大明神縁起』(『続群書類従神祇(じんぎ)部』所収)がもっとも端的、ほかに『三輪叢書(そうしょ)』(五巻)、『大神神社史料』(10巻)がもっとも新しく詳細である。

この辺りは先に出した「奈良坊目拙解」にも

「社傳曰・・・」として記載されております。

つまり「率川阿波神社」については阿波國阿波郡「事代主神社」より勧請されたと。

阿波市市場町伊月字宮ノ本 事代主神社

旧跡地については「三輪叢書」に

地図の左下に「若宮阿波社跡」とありますです。

さらに徳島県神社誌「事代主神社」を見れば。


「伊月城附記して曰く、当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲刻事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依媛命斎御座す。」云々とあり、率川神社の御祭神が神武天皇の皇后である媛蹈韛五十鈴姫命であり、五十鈴依媛命はその妹であることを鑑みると、結構納得できるのもがある様に思えませんか。


さてもう一点。

建布都神といえば建御雷神(たけみかづち)のこと、つまり。

『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、別名に建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)と記され、『日本書紀』では武甕槌や武甕雷男神などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある。

また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。

wikipedia

この神が「阿波國阿波郡建布都神社」よりやってきました。



どこに?

我は狭井御子神である。お前の氏神の神建布都神と共に阿波国に住んでいるが、今皇孫命の招集により神建布都神と共に都にいる。建布都神は御笠山に、我は率川の辺に住みたいと思うので祀れ」

ふ〜ん、奈良の御笠山(御蓋山)の建布都神(武甕槌命)を祀る神社って、どこ?

まさかこんなトコじゃないっすよね。

○日○社


鹿島の建布都神については何度も何度も書いてきましたので、ここでは書きませんが、上の写真の神社はその由緒に鹿島から勧請したとあります。

それが奈良時代の神護景雲2年(768)。

あとは言わずもがなというところでしょう。

口幅ったいですけどこの場合の勧請っていうのは何も無い所に御祭神をお呼びするのじゃなくて、いわゆる古跡にお墨付きを与える、もしくは古跡の正当性を立証するような意味があると思うんですよね。

率川阿波神社の場合は、事代主がいた阿波からやってきた場所が忘れ去られてるのできちんとお祀りしましょうねって意味か、その頃に何か不吉なことなどがあって「これは○○神をきちんとお祀りしてないからじゃ」って畏れ奉った場合などがあるんじゃないかな。

などと思いつつ、びぼーろくとさせていただきます。

これ、ぜったいどっかで使われそうだな〜。

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 救世山峯薬師 法谷寺

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 救世山峯薬師 法谷寺

初めまして

疑問に思ったことを書かせていただきます。

この縁起はどこからか引っ張ってきたものと思われます。

>当域南北に枕し、東に向いて開く正に浄瑠璃境の域

眉山は東西に枕し北に向いて開いていますので、この場所ではないかと思います。

峯薬師という割には麓にあるお寺なので、それも不思議なところです。

また、聖徳太子が活躍したかどうかも疑わしいですし、薬師信仰が盛んになったのは後の時代ですから、聖徳太子創建というのは怪しいように思われます。

返信
返信
  1. 初めまして。
    「匿名」なんですね。
    で、こういう不躾な書き方をされるんですね。
    了解しました。
    さて、きちんと読んでいただけたなら「救世山峯薬師」別当「法谷寺」と書いてあるのがお目に止まるかと思います。
    「救世山峯薬師」の「別当寺」が「法谷寺」です。
    「救世山峯薬師」はここではなく、確たる場所は判明しておりませんが、もっと山頂に近い場所だと推測されます。
    また
    >聖徳太子が活躍したかどうかも疑わしい
    とのことですが、上の方のコメントにも書きましたが
    「伊予国風土記逸文」に
    上宮聖德(うへのみやのしやうとこ)の皇(おほぎみ)を以ちて、一度と為す。及(また)、侍(みとも)は高麗(こま)の惠慈(ゑじ)の僧(ほふし)・葛城臣(小楢)等なり。時に、湯の岡の側に碑文(いしぶみ)を立てき。其の碑文を立てし處を伊社邇波(いさには)の岡と謂ふ。
    とあり、道後温泉に赴いたとの説もあります。
    聖徳太子の活躍?、また存在自体を疑う方はいらっしゃいますので、それはご自由です。
    そして、薬師信仰は飛鳥時代から確認されております。
    聖徳太子が用明天皇の病気平癒を祈願して薬師像を奉納していることは、仏教学者 石田茂作氏の著書にも記載されています。
    創建を疑うのは勝手ですが、これは疑問に思ったことではなく、疑っていることを述べただけ、と思いますが。

http://goutara.blogspot.com/2011/10/blog-post_29.html

救世山峯薬師 法谷寺

あんまり書きたくない気持ちもあります。
だって、だ〜れも信用しないと思うのです。
「救世山峯薬師」別当「法谷寺」。
場所はここ、蔵本の球場裏です。加茂名中学校も近くマーチングバンドの練習する音も風に乗って聞こえてきます。西部公園の登り口からは車で1、2分。

より大きな地図で 法谷寺 を表示
「救世山法谷寺」の碑があります。この道を入ってしまうと帰る時Uターンしにくいので
ここらに車を置いてあとは徒歩がいいんでないかい(志村けん風に)。

途中には「山神社」「八幡神社」があり書きたいこともございますが、今回はスルー。

数分歩きますと「救世山峯薬師 別当法谷寺」の碑が。

ここには「醫王水」なるものもございましたが、ここも華麗にスルー。

本題を急ぎます。

きれいに整備された石段をたらたらと登ります。

「峯薬師」本堂でございます。

あろうことか、あるまいことか「十六菊」の紋が。

さて、ご存じない方々に、ここをどうして取り上げたのかを説明させていただきますと。

下の由緒をご覧下さいませ。

「救世山峯薬師縁起」

古え小治田宮天皇の御宇、聖徳太子当山の

対岸気延庄、上宮にて詔りし、「当域南北に

枕し、東に向いて開く正に浄瑠璃境の域也。

前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を

祈願せん」と、秦河勝に命じ、以乃山馬峰に

醫王善逝薬師如来を作らしめ、救世山峯

薬師を開山す。後々仏教を志す者必ずこの

霊地を巡礼す。弘法大師峯薬師に修法、真

言密教を興す。嵯峨天皇の信を得、当山を

真言密教三密修験の根本道場とし、救世山

大乗院遍照寺を建立併せて、東の峰に金剛

光寺を建立、峯薬師を中心に遍照金剛の

霊地となす。

(以下略)

ね、小治田宮天皇は推古天皇ですので、「由緒によれば」下手したら607年建立の

法隆寺より古い建立であるかもしれないところなんです。

また、「秦河勝」に命じ「以乃山馬峰に醫王善逝薬師如来を作らしめ」って。

「以乃山」は言うまでもなく「眉山」の古名です。

「道は阿波より始まる」でも「記紀の説話は阿波に実在した」でも

奈良「法隆寺」の本社は、ここ「救世山峯薬師」であるとしております。

また、ここ「救世山峯薬師」の「峯薬師像」及び「救世観音像」は江戸時代末期に

行方不明になり、明治期に奈良法隆寺で岡倉天心により発見されたとも書かれて

おります。


さあ、どうしましょう。

こんなお話、誰が信用してくれるのでしょうか?

「法隆寺」の本社が、「救世山峯薬師」であるなどとは、どんな史書を見ても載ってる

はずもございません。

ただ、由緒にはご覧のように「堂々と」書かれております。

な〜んにもない所にこんな由緒があるはずもございません。

と、いう訳で(どういう?←聞き飽きたかな)頭の中がぐるぐるして来たので、さあ帰ろう

かと思ったところ、脇に何やらお堂があるではございませんか。

近くに寄ってよくよく拝んでみますれば。

ああああああああ、またしても、またしても「歓喜天」!!!

もう、煮るなと焼くなと、どうにでもして下さいませ(涙)。

最近は陰陽和合とはほど遠いんですが(笑)。

弘明寺商店街がTVロケでよく利用されている理由とは? - [はまれぽ.com] 横浜 川崎 湘南 神奈川県の地域情報サイト

弘明寺商店街がTVロケでよく利用されている理由とは? - [はまれぽ.com] 横浜 川崎 湘南 神奈川県の地域情報サイト

弘明寺商店街がTVロケでよく利用されている理由とは?

36年ぶりに完全復活「横浜銀蝿 40th」。オリジナルメンバーで再結成!

弘明寺商店街といえば、横浜市南区にある市内最古の寺院、弘明寺の門前にまっすぐ延びる商店街。

1956年に架けられた270mのアーケードは、その当時東洋一といわれ、2001年には新築建て替えされ、312mの新しいアーケードに生まれ変わった。
 


商店街を行き交う人々を見守るように立つ、弘明寺 仁王門
 

仁王門を背にすると、正面にまっすぐ延びる商店街

しかも、弘明寺から鎌倉街道まで延びるこの商店街は、京浜急行の弘明寺駅と市営地下鉄の弘明寺駅に挟まれている。そのため買い物客だけでなく、駅間を移動し電車を乗り換えるサラリーマンにとっては、「ほんのひと時の憩いの場」にもなっているという。
 


赤い電車でおなじみの京浜急行弘明寺駅
 

市営地下鉄弘明寺駅は鎌倉街道沿いに

また、季節ごとに賑わい方にも変化があるのが、弘明寺商店街の特徴のひとつ。春には、商店街の中央をクロスするように流れる、大岡川沿いの桜がみごとに開花し、お花見の人々で賑わう。秋には弘明寺山の紅葉を望みに、冬には弘明寺に初詣にと、季節ごとに目的を持って訪れる人々も多いのだ。

なかでも長期にわたり楽しめるのが、5月から9月初旬まで行われる縁日。弘明寺の聖天様の御縁日である3の日と、観音様の御縁日である8の日にちなんで、毎月3と8の付く日に屋台がずらりと並ぶのだ。この縁日は50年以上の歴史があり、地元民からは「サンパチ縁日」と呼ばれ、親しまれている。



ドラマからCMまで、ロケ地としても大人気の商店街



弘明寺商店街を舞台にしたCMやドラマ、街歩き番組などは数多い。
ここ数年間に放送された中で、記憶に残る作品には以下のものがあげられる。

街歩きや街紹介番組
・ちい散歩
・出没!アド街ック天国

CM
・カルビーポテトチップス ミュージカル編
・フジカラー
・吉野家 春のヨシギュー祭
・宝くじtoto BIGの神様 夢の6億へ編

そこでまずは、ロケの手続きなどを行っている、商店街の協同組合事務所の方にお話を伺ってみた。
 


協同組合の副理事長は、"SHOESとんぼや"の魚住さん

―なぜロケに使われることが多いと思いますか?
商店街は屋根が付いているので、お天気に影響されずにできるからだと思います。道幅も広いので、撮影などはやりやすいかもしれないですね。

―ロケの依頼が来たらどのように対応するのですか?
まずはご担当者と、ロケの内容についてしっかり打合せをします。ロケに使うお店への交渉などは、ご担当者に責任を持って行ってもらいます。

―ロケではどんな人が来ましたか?
吉野家のCMに出演された佐藤隆太さんや市川由衣さん、塚地武雅さん。totoのCMでは浅野忠信さんや東幹久さんなどがいらっしゃいました。

―これまでにロケでトラブルなどはありましたか?
最初の頃はありましたね。大きな撮影機材をお店の前に置いてしまって、お客さまが入れなかったことや、早朝の撮影のときにお店を早く開けてほしいと言われたことも…。その後少しずつ解決していくことで、お店の信頼を取り戻しました。

―今後もロケで使いたいという依頼があれば受けますか?
内容にもよりますが、ご担当者がきちっとした対応をしていただければお受けすると思います。
 


一番古くからある和装小物の濱田屋さん。和菓子の金米堂さんや盛光堂も同じ頃にスタート



商店街の人たちのあたたかさが商品のイメージにピッタリ!



次に、商店街でCMのロケをしたことがある、カルビー株式会社 広報部の間瀬さんにもお電話でお話を伺ってみた。

―弘明寺商店街をロケ地に選んだ経緯を教えてください。
以前、ポテトチップスのCMのロケをやらせていただきました。
とても活気があり、あたたかみのある商店街のイメージが、作品として目指す方向に合っていましたし、アーケードがある点も、雨天時の対応が可能であることにおいて重要でした。

―ロケ時の商店街の対応はどうでしたか?
レストランをお休みにして、出演者の楽屋として利用させていただきました。とても協力的で、スムーズに撮影ができて感謝しています。

―通行人や買い物客への対応はどのようにされましたか?
カメラを回すときには通行を待っていただき、カメラを止めたらすぐに通行いただく、ということを繰りかえしながら撮影しました。

―商店街をロケ地に使う良さは?
セットでは難しいですが、リアルな生活者の雰囲気、親しみが出せる点が魅力かと思います。

―ほかにも横浜市内でロケを行ったことは?また今後ロケをする予定はありますか?
じゃがりこのCMは、みなとみらいで撮影したことがあります。
横浜には多くの撮影スタジオがありますので、これからも使用させていただくことがあると思います。


なぜ弘明寺商店街は、よくロケに使われるのか?
その答えは、温かみのある商店街の雰囲気と、アーケードがあることでお天気に左右されずにロケができる点だった。

また、弘明寺商店街のHPを開くと、"取材等の対応"という入口があるので、「どこに頼めばいいか?」と迷うことなく連絡を取れることも理由のひとつではないだろうか。

そして今回、はまれぽの取材依頼をした際、協同組合の方々の丁寧でしっかりとした対応を見ていて、記者自身の中でもロケ地として選ばれる理由を実感した。
 

弘明寺商店街のHPには「取材等の対応」という入口がある



 

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