2025年6月5日木曜日

とくしまヒストリー ~第1回~:徳島市公式ウェブサイト

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とくしまヒストリー ~第1回~

城下町徳島の誕生

 天正13年(1585)、四国を平定した豊臣秀吉は阿波国を蜂須賀家政に与えた。はじめは長年功績のある正勝に与えるつもりであったが、正勝は老齢で秀吉の側近く仕えることを望みこれを辞退し、代わりに28歳の嫡子家政が拝領した。
 蜂須賀家は尾張国海東郡蜂須賀村(愛知県あま市)の豪族で、「小六」の名で知られる正勝が、織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正9年(1581)には播磨国龍野城で5万3千石の大名となった。天正13年に家政が拝領したのは阿波国のうちで17万5600石余だったが、慶長8年(1603)には阿波国全てを領有し、さらには元和元年(1615)には淡路国7万石余を与えられ、蜂須賀家は阿波・淡路両国25万7000石の四国最大の大名となった。
 家政は猪山(現在の城山)に築城を始めたが、城地の選定は天下人秀吉であった。この時、「渭津(いのつ)」の地名を「徳島」と改めた。新領主蜂須賀氏の入国にあわせ、人心の一新を図るねらいがあったのだろう。
 築城と並行して城下町の建設が行われた。徳島に来て商売をする者には屋敷地を与えるという告示を阿波国内に出すとともに、堺から千利休の甥、魚屋道通(ととやどうつう)を招くなど、町人を積極的に集め、町づくりが進められた。
 徳島は河口部に立地し、大小河川の乱流するデルタ地帯に設けられた城下町である。デルタ地帯の土地利用は築堤工事などが必要だが、河川を水上の幹線道路として軍事的、経済的に利用することができるのが魅力だ。桃山時代から江戸初期の城下町の多くは河口部に立地し水上交通で栄え、後には「水の都」と呼ばれる都市が誕生する。徳島もその一つだ。城下町徳島は、阿波藍を始めとする特産物に加え、水運の展開により繁栄を極め、明治27年(1894)には全国11位(「都会一覧表」)の人口を有するまでに成長したのだ。

新製輿地全圖 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

坤輿万国全図

坤輿万国全図

坤輿万国全図

 末の1602年に北京で刊行された、イタリア人のキリスト教宣教師マテオ=リッチ(利瑪竇)が作成した世界地図。坤(こん)は「大地」、輿(よ)は「乗り物」のことなので、「坤輿」は「乗り物としての大地」、つまり地球という意味になる。大航海時代のヨーロッパで航海者によっていられた情報をもとに新たな発見地を加えて作られた世界図をもとに、マテオ=リッチ自身の知見と構想から作成されたもので、五大州など現在の世界図に取り入れられた特徴も多い。中国においては最初の本格的な世界地図であり、永楽帝時代以来、世界への知識が途絶えていた中国人に大きな刺激となった。また鎖国時代の日本にももたらされ、日本人の世界認識にも大きな影響を与えた。
 なお、清の康煕帝の時代になると、同じように宣教師であるブーヴェ(白進)とレジス(雷孝思)によって、初めて中国本土の実測図として皇輿全覧図の作成が行われ、1719年に康煕帝に献上された。『坤輿万国全図』は世界全体図であり、『皇輿全覧図』は中国のみの実測図であって内容が全く違うので注意すること。

マテオ=リッチの世界地図

 『坤輿万国全図』は、縦179cm、横69cmを一幅とする計六幅からなる大きな絵地図で、マテオ=リッチが作成し、明の万暦帝の30年(1602年)に李之藻(りしそう)が刻版して、北京で刊行された。それ以前に、マテオ=リッチはマカオに来着してから2年目の1584年に広州で『山海輿地図』を作成、それを修正した図が『坤輿万国全図』である。『山海輿地図』は現存していないが、マテオ=リッチは、それまで中国で作成された世界図と称する地図が、いずれも中華世界を中心に置き、それ以外の世界は小さく描いているに過ぎないものだったので、「彼らの思いあがった」認識を改めようと考えて作成したという。しかし、マテオ=リッチはヨーロッパ製の世界地図をそのまま刊行したのではなく、中国人が受けいれられるような工夫をしている。以下、『坤輿万国全図』の特徴的なポイントは次のようになる。
  • 中央経線を太平洋を通る東経170度としている。それまでのヨーロッパで作られた世界図にはない、斬新性を持っており、現在の日本で見られる世界図に近い。中華思想にとらわれている中国人の世界観にも受けいれられやすかったと思われる。
  • 世界を五大州に分けて示した。これは世界図で初めての試みである。五大州は、亜細亜(アジア)、欧羅巴(ヨーロッパ)、利未亜(リビア、アフリカにあたる)、亜墨利加(アメリカ)、墨瓦蠟泥加(メガラニカ)。メガラニカ州とは南半球の南端に広がる広大な陸地とされており、現在のオーストラリア大陸はまだ描かれていない。
  • アメリカ大陸を狭いパナマ地峡でつながる、南北の大陸として正しく描いている。ただその内陸部は未知の地域としている。
  • 五大州の内部の山脈、河川、湖水などの細部を描き、地名を漢字で記入している。その多くは正確だが、一部には現在のフィンランドを「矮人国」とするなど、空想的記述も見られる。
<応地利明『絵地図の世界像』1996 岩波新書 p.168~>

日本での受容

 『坤輿万国全図』は、早くも刊行の翌年の1603年から1606年の間に、わが国にもたらされたと考えられている。地名が漢字表記であったことが他のヨーロッパ製の地図よりもわが国で歓迎されたのであろう。それ以後、近世における世界像の転換に大きな役割を果たした。特に1639年の鎖国以後は、新たな情報が入ってこなくなったので、この図が唯一の権威のあるものとして、広く用いられた。特に、1695年に刊行された西川如見の『華夷通商考』や、1713年の『采覧異言』、1715年の『西洋紀聞』を著した新井白石などの貴重な情報源となった。
 その複製(写本)は各藩で作られている。有名なものは、仙台の伊達藩のもので、藩の天文学者であった名取春仲が作成した。中国の『坤輿万国全図』は単彩であるが、伊達藩のものは五大州ごとに着色したカラフルなもの(右上の図)で、現在は仙台市博物館に所蔵されており、2014年11月に特別展示された。

中国にとっての『坤輿万国全図』

 1584年、マテオ=リッチ(利瑪竇)は広東の肇慶に到着して間もなく、世界地図『山海輿地全図』を印刷した。彼は宣教師で地図学者ではなかったが、この地図はヨーロッパ人アブラハム・オルテリウスが描いたもので当時としては精度の高いものであった。『山海輿地全図』は知府(地方官)の許可を得て印刷されたが、それが中国で初めて印刷された西洋式世界地図であった。そして、それは明の万暦帝に献上された。
 この時はじめて世界地図を目にしたことは、中国人の世界観を大きく揺るがし、それを転換・変化させる標識となった。大きな変化とは、中国人が久しく抱いていた自己中心的な「天下」観、つまり文字どおり「中国」が世界の中心の広大な部分を占めているという観念から、世界には中心はなく、「万国」が林立しているという「万国」観に変わったことである。いわば中国の「グローバル化」が静かに始まったことを意味していた。
(引用)当時、マテオ=リッチ自身も、皇帝がもしこのような地図を見たら中国をこれほど小さく描いたことで自分たちが中国人を見下しているとして罪に問うのではないかと恐れ、さらに多くの守旧的な大臣たちも、この地図を見て故意に外夷を誇張して描いていると言ってこの世界観を攻撃した。しかも彼らは『山海経』の想像した世界や鄒衍の「大九州」と結びつけ、これは中国の古書を剽窃して捏造したデマで、「中国の数万里に及ぶ地を一州としている、矛で盾を突くようなもので反論するまでもなく自らボロを出す」と批判した。だが、李贄、方以知、……徐光啓ら知識人はこの種の世界観を受け入れたばかりでなく、万暦帝までこれを非常に喜び、死後には定陵の皇帝の墓に副葬した。「天下」が変化した意味を理解することなく、喜んで宦官にこの地図をもとにした大幅の『坤輿万国全図』屏風を描かせた。こうして、この地図は合法性、すなわち公的な認可が与えられたことで合理性を備えたことになり、知識階級の承認を得られることになった。<葛兆光/辻康吾監修・永田小絵訳『中国再考―その領域・民族・文化』2014 岩波現代文庫 p.57>
 マテオ=リッチもこの地図によって中国が大中華文化の優越感を捨て、カトリック文明を受け入れることを望み、「彼らは自国が多くの国家と比べてどれほど小さいかを見て取れば尊大さや横暴さがいくらかなくなり、他国と関係を持ちたいと考えるようになるだろう」と述べている。思想的にはこの地図は中国人に一家の事実を教え、その世界観を大きく変えたのだった(要点)。
  1. 人が暮らす世界は平面ではなく丸い形をしている。
  2. 世界は非常に大きく、中国はアジアの十分の一にすぎない。
  3. 古代中国の「天下」「中国」「四夷」は成立しない。
  4. 世界にはさまざまな、平等な文明が存在する。
<葛兆光『前掲書』 p.34,57-59>

山海輿地全図 - Wikipedia

山海輿地全図 - Wikipedia

山海輿地全図

山海輿地全図

山海輿地全図(さんかいよちぜんず、簡体字: 山海舆地全图; 繁体字: 山海輿地全圖; 拼音: shānhǎiyúdìquántú)は、マテオ・リッチが1600年ごろに作成したと思われる世界地図で、『月令広義』(1602年)および『三才図会』への引用で残っている[1]。これを模した後世の地図の題名も「山海輿地全図」となっていることが多い。

内容

山海輿地全図は、マテオ・リッチらによる中国でのイエズス会士の布教活動 (Jesuit missions in Chinaとの関係が深い[2]。マテオ・リッチはいくつかの地図に「山海輿地全図」との表題を付けている。1584年、マテオ・リッチは肇慶で山海輿地全図を作った。1600年に呉中明の要請で改正版が出されている[3]。 また、現在確認できる、「天球」「地球」の語の初出は本図である[4]

東アジア

その他、東シナ海が「大明海」、南西諸島の向こうの太平洋 が「小東洋」と記されており、北方ではゴビ砂漠が「沙漠」、その北が「北極界」と記されている。

中国西部

南アジア

「爪哇」はジャワであり、「木爪哇」「小爪哇」はジャワ島付近の島と見られる。この他、ベンガル湾が「旁葛臘海」、ペルシア湾が「小西洋」と記されている[5]

ヨーロッパ

ヨーロッパは「歐羅巴」と書かれている。

黒海が「太海」と書かれているが、大西洋地中海などは現代と同じ名が付いている。

北アメリカ

南北アメリカは「南亞墨利加」、「北亞墨利加」と書かれる。詳しい地名は少なく、同定もされていない。

  • 寒河
  • 香峯
  • 亞外馬
  • 食人國

太平洋は南アメリカ沿岸で「寧海」「白露海」「東南海」、北アメリカ沿岸で「大東洋」などと書かれている。

アフリカ

アフリカは全てが「利未亞」(リビア)と書かれている。アトラス山脈付近に「天下此山至高」(世界一高い山)との説明がある。アフリカの周囲の海は、

南極

南極海南極大陸が発見される前、南方にはテラ・アウストラリス・インコグニタ(Terra Australis Incognita、未知の南方大陸)という大陸があるという仮説があった。フェルディナンド・マゼランが南米大陸とフエゴ島の間のマゼラン海峡を発見すると、フエゴ島は南方大陸の一部とみなされ、南方大陸はマゼランの名をとってメガラニカと呼ばれるようになった。メガラニカはこの地図では「墨瓦臘泥加」と書かれている。「此南方地人至者少, 未審其物」(この南方に行った人は少なく、よく分からない)との注釈がある。

影響

日韓でこの地図を模した地図が作られている。1785年ごろ、長久保赤水はマテオ・リッチの地図を参考に日本の島々などを加筆した『地球万国山海輿地全図説』を作っており、後世の人々はこれを複写、加筆しつつ幕末まで使った[6]1802年平住専菴らが『唐土訓蒙図彙』の中でこの地図を転載している[7]1844年には田謙が長久保赤水の図を再刻している[8]。これらの地図はマテオ・リッチ系世界図と呼ばれることがある。

これとは別に、司馬江漢らは18世紀末からマテオ・リッチ系世界図より正確な蘭学系世界図を出版しているが、一般にはマテオ・リッチ系世界図も受けがよかった[9]

脚注

  1. 鮎澤 信太郎, 月令廣義所載の山海輿地全圖と其の系統, 地理学評論, 1936, 12 巻, 10 号, p. 899-910, 公開日 2008/12/24, Online ISSN 2185-1719, Print ISSN 0016-7444, https://doi.org/10.4157/grj.12.899, https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj1925/12/10/12_10_899/_article/-char/ja
  2. Ptak, p.1
  3. 柴田篤「<紀要論文>『畸人十篇』研究序説」『哲学年報』第65巻、九州大学大学院人文科学研究院、2006年3月、35-60頁、doi:10.15017/6487ISSN 04928199NAID 110006263667normal 
  4. ^ 黄河清 "地球"冶探源, 中国科技术语/2017年、第19卷 第3期
  5. ^ Ptak, 10-12
  6. ^ 神戸大学 地球万国山海輿地全図説、2009年9月4日閲覧
  7. ^ 筑波大学 山海輿地全図、2009年9月4日閲覧
  8. ^ 筑波大学 地球萬國山海輿地全圖説 2021年12月25日閲覧
  9. ^ 明治大学 4. 地球萬國山海輿地全圖説;山海輿地全圖(序) / 常陽水府 赤水 長玄珠述

参考文献

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  • The Sino-European Map ("Shanhai yudi quantu") in the Encyclopedia Sancai tuhui Roderich Ptak [1], 2005

関連項目

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外部リンク

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トビト書 第五章 - Wikisource

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トビト書 第五章

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  • 1 そのときトビアこたへてふ『ちゝよ、なんぢめいぜしことは、なににてもすべてこれをおこなはん。
    2 されどわれこのひとらざるに、如何いかにしてその金子きんすんや。』
    3 トビトかれ證書しようしよあたへてふ『たれなんぢともくべきひとさがせ。われくるあひだかれ報酬むくいあたへん。さればきてその金子きんするべし。』
    4 かれでゆきてひとさがしたるに、御使みつかひラフアエルを見出みいだせり。
    5 されどトビアこれをらずしてかれにいふ『われなんぢともにメデアのラゲスまでくをべきか、なんぢそのところをよくるか。』
    6 御使みつかひかれにいふ『われなんぢともかん、われよくそのみちる。われ我等われら兄弟きやうだいガバエルととも宿しゆくしたることもあり。』
    7 トビアかれにいふ『われて、われわがちゝにこのことげん。』

    8 ラフアエルかれにいふ『け、おくるな。』かれりてちゝにいふ『よ、われ、われともひと見出みいだせり。』ちゝいふ『かれをわがもときたれ、われかれ何族なにぞくものなるか、またかれなんぢともくにしんずべきひとなるかをん。』
    9 トビアかれべば、かれりてたがひ挨拶あいさつす。
    10 トビトかれにいふ『兄弟きやうだいよ、なんぢ何族なにぞく何家なにけひとなるか、われげよ。』
    11 かれトビトにいふ『なんぢもとむるは、やからなるか、家系いへすぢなるか。もしくはなんぢともくべき雇人やとひびとなるか。』トビトかれにいふ『兄弟きやうだいよ、われなんぢうまれなんぢとをりたし。』
    12 かれいふ『われは、なんぢの兄弟きやうだいたちのうちなるだいアナニヤの、アザリヤなり。』
    13 トビトかれにいふ『よくこそつれ、兄弟きやうだいよ。われなんぢやからなんぢ家系いへすぢとをたづねたればとていかるな。なんぢすぐれたる家系いへすぢよりでたる兄弟きやうだいなり。われはだいセメヤのアナニヤとヨナタンとをる。われとも禮拜れいはいのためにエルサレムにきて、初子うひごおよびわれらの收穫かりいれの十ぶんの一をそなへたることあり。彼等かれらわれらの兄弟きやうだいたちの過誤あやまちまよかざりき。兄弟きやうだいよ、なんぢ家柄いへがらよりでたり。
    14 されどわれなんぢ幾許いくばく賃銀ちんぎんあたふべきか、われげよ。一にちに一ドラクマおよびわがおなじく日用にちようのものをあたへんか。
    15 なんぢもし健全すこやかにてかへらばなんぢ賃銀ちんぎんいくばくかの割增わりましくはへん。』
    16 かくてかれ同意どういせり。そのときトビト、トビアにいひぬ『たび準備そなへをせよ。きてつゝがなくかへきたれ』と。そのたび必要ひつえうなるものをそなへしときちゝかれにいひけるは『このひとともけ、ねがはくは、てんいまかみなんぢらの旅路たびぢしゆくし、しゆ御使みつかひ汝等なんぢらともなはんことを』と。ここにおいかれ二人ふたり旅立たびだち、わかもののいぬかれらとともけり。

    17 しかるにそのはゝアンナきてトビトにいふ『いかなればなんぢ我等われらおくいだせしか。かれ我等われらまへに、はいるにもづるにも、われらのつゑならずや。
    18 かねかねくはへんとてむさぼるな。我等われらのために安全あんぜんすべきなり。
    19 しゆより我等われら生活くらしためあたへられたるもの、我等われらのためにれり。』
    20 トビトかれにいふ『姉妹しまいよ、こゝろまどはすな。かれ健全すこやかにてかへらん。なんぢふたゝかれるべし。
    21 御使みつかひかれとともにき、かれ旅路たびぢしゆくせらるべければ、かれ健全すこやかにてふたたかへらん。』
    22 かくてアンナくことをめたり。

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    トビト記 1

    1トビトの物語の書。父はトビエル、祖父はハナニエル、更にアドエル、ガバエル、ラファエル、ラグエルとさかのぼるナフタリ族アシエルの家系にトビトは属する。 2トビトは、シャルマナサルがアッシリア人の王であったときにティスベの地で捕囚の身となった。ティスベは、上ガリラヤのケデシュ・ナフタリの南、アセルの北、西へ向かう道の後ろ、フォゴルの北にある。

    トビトの信仰生活

    3わたしトビトは、生涯を通じて真理と正義の道を歩み続けた。またわたしは、一緒に捕らえられてアッシリア人の地ニネベに行った親族や同胞の者たちのために多くの慈善の業を行った。 4わたしがまだ若くして故郷イスラエルにいたとき、父祖ナフタリの部族はこぞって先祖ダビデの家とエルサレムから背き離れた。このエルサレムはすべての部族のためにいけにえを献げる目的で、イスラエル全体によって選び出された町である。この町には神の住まいである神殿が代々限りなく続くようにと聖別され、建てられていた。 5親族全員と父祖ナフタリの一族は、北イスラエルの王ヤロブアムがダンで造った子牛に、ガリラヤの山々でいけにえを献げていた。 6しかし、イスラエル全体のため永久に守るべき定めとして記されているように、祭りのときには、わたしはただ一人、収穫と家畜の初物、家畜の十分の一、および羊の初刈りの毛を携え、足しげくエルサレムへ通った。 7そして祭壇に進み出て、それらの物をアロンの子孫である祭司たちに差し出し、穀物、ぶどう酒、オリーブ油、ざくろ、いちじくおよび他の果物の十分の一を、エルサレムで仕えているレビの子孫たちに与えた。別の十分の一を六年分金に換えて取って置き、毎年エルサレムに行って使うのであった。 8また三年ごとにはその金を孤児、寡婦、およびイスラエルの仲間に加わった改宗者たちに持って行って与え、モーセの律法が定めている規定に従って、共に食事をした。それはまた、祖父ハナニエルの母デボラが命じた掟でもあった。というのは、父が死に、わたしは孤児となっていたからである。

    捕囚での生活と神の導き

    9さてわたしは大人になったとき、先祖の家系から妻をめとり、彼女によって男の子をもうけ、その名をトビアと名付けた。 10わたしはアッシリアに捕囚の身となり、ニネベの町に連れて来られた。そこでは、親族、同胞の者たちは皆、異教徒の食事をしていた。 11しかしわたしは、心に固く決めて異教徒の食事はしなかった。 12そして、心から神のことを思っていたので、 13いと高き方は、わたしがシャルマナサル王の恵みと好意を得られるようにしてくださり、それでわたしは、王に必要な物を買い入れる役を与えられた。 14そこで、王の存命中、わたしはメディアに行って王に必要な物を買い求め続けたが、メディアの地方にいるガブリの兄弟ガバエルに、銀十タラントンの入った財布を預けておいた。 15しかし、シャルマナサルの死後、彼に代わってその子センナケリブが王となると、メディアに至る道は危険となり、わたしもメディアに行くことができなくなった。

    トビトの善行と災難

    16シャルマナサルの存命中、わたしは同族の者たちに慈善の業を行った。 17飢えた人々に食べ物を与え、裸の人々には着物を着せ、また同族のだれかの死体がニネベの町の城外に放置されているのを見れば、埋葬した。 18王センナケリブは、その犯した冒瀆のため、天の王である神の裁きを受け、ユダヤから逃げ帰って来た。そのとき、彼が殺した者がいたので、その人をも葬った。事実センナケリブは、怒りにまかせて多くのイスラエル人を殺害したのであるが、わたしはその死体をこっそり運んでは埋葬していたので、センナケリブが死体を捜しても見つからなかった。 19しかし、ニネベの一市民が王センナケリブに密告したので、わたしは身を隠した。王がわたしのことを知り、わたしは自分がお尋ね者として命をねらわれていることが分かったので、恐ろしくなって逃げた。 20財産はすべて没収されて王の宝庫に取り上げられ、わたしには妻ハンナと息子トビアだけが残された。

    甥アヒカルの登用

    21それから四十日もたたぬうちに、王はその二人の息子に殺された。しかし二人がアララトの山々へ逃れたので、センナケリブの別の息子エサルハドンが王位についた。そして彼は、わたしの兄弟アナエルの息子アヒカルを王国の財政管理者に任じたので、アヒカルは国務全体にわたって権力を持つようになった。 22そのアヒカルがわたしのことを王に釈明してくれたお陰で、わたしはニネベに帰ることができた。アヒカルは、かつてセンナケリブがアッシリアの王であったときに給仕頭、王の印章の管理者、かつ国務と財務の担当者でもあったので、エサルハドンは再度彼をその任に就かせたわけである。しかもアヒカルはわたしの親戚で、甥に当たっていた。