2026年7月30日木曜日

アキレウス - Wikipedia

ギリシャ青銅器時代の伝説の防具、叙事詩に描かれた物語 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト

ギリシャ青銅器時代の伝説の防具、叙事詩に描かれた物語 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
 アキレウスは、並外れた装備に恵まれていた。神ポセイドンから贈られた軍馬、ケンタウロスのケイローンから贈られたトネリコの槍、そして「神々がペレウスに与えた防具」(『イーリアス』第18巻84行目)を持っていた。(参考記事:「怪物ミノタウロスが古代の人々を魅了したのはなぜ?」
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/022400090/

ギリシャ青銅器時代の伝説の防具、叙事詩に描かれた物語

ホメロスが叙事詩『イーリアス』に込めたメッセージを読み解く

「コリント式」と呼ばれる古代ギリシャの兜。紀元前5世紀。独ミュンヘン、州立古代美術博物館。(PETER HORREE/ALAMY)

「コリント式」と呼ばれる古代ギリシャの兜。紀元前5世紀。独ミュンヘン、州立古代美術博物館。(PETER HORREE/ALAMY)

 トロイア戦争を描いた古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』。数々の戦闘シーンが登場するが、クライマックスはギリシャのアキレウス、トロイアのヘクトールによる壮絶な一騎打ちだ。

 この二人は性格こそまるで違うものの、共通点もいくつかある。まずはどちらも王族の生まれだ。アキレウスは女神テティスとテッサリアの王ペレウスの息子であり、ヘクトールはトロイアの王と王妃の間に生まれた。そしてどちらも若く優れた戦士であり、それぞれに異なる意味において高潔だった。

 最後の決闘はまた、双方にとって個人的な戦いともなった。アキレウスはトロイア側に壊滅的な打撃を与え、ヘクトールの兄弟や義理の兄弟の命を奪った。一方のヘクトールは、アキレウスのいちばんの友であるパトロクロスを殺している。

 そして意外な共通点は、決闘時、二人はともにアキレウスの傑出した防具一式を身につけていたことだ。ヘクトールがどんななりゆきからこの防具を身につけたのか、その結果どうなったのかは、『イーリアス』全編の中でもとりわけドラマチックな物語となっている。

アテナに導かれ、ヘクトールののどに槍を突き刺して致命傷を与えるアキレウス。ピーテル・パウル・ルーベンス作。1630年頃。仏ポー、ポー美術館。(BRIDGEMAN /ACI)

アテナに導かれ、ヘクトールののどに槍を突き刺して致命傷を与えるアキレウス。ピーテル・パウル・ルーベンス作。1630年頃。仏ポー、ポー美術館。(BRIDGEMAN /ACI)

アキレウスの防具と親友の死

 トロイア戦争の原因は、ギリシャの都市スパルタの美しい女王ヘレネーと、現在のトルコにあったとされる王国トロイアの王子で、ヘクトールの弟であるパリスが駆け落ちしたことだ。叙事詩『イーリアス』は、二人の結婚からすでに10年がたった時点から始まる。『イーリアス』で焦点があてられるのは、戦争そのものだ。

『イーリアス』は、紀元前750〜700年頃にホメロスが最終的な形に整えたものと考えられているが、そこに至るまで、500年以上にわたり何世代もの詩人たちが口伝してきた。つまりこの詩にうたわれている壮大な伝説は、青銅器時代にルーツを持つことになる。

 青銅器は、当時の社会にとって大きな技術的進歩であり、農機具、家庭用品、宝飾品、宗教関係の品々、そして戦争のための武器に革命をもたらした。青銅の穂先をつけた槍、青銅の矢じりをつけた矢、青銅製の剣といった武器が価値を高めるとともに、青銅製の防具(兜や鎧)は、敵から身を守る最良の手段となった。

トルコ北西部にあるトロイアの遺跡。長年の間にこの場所にはいくつかの都市が建設されており、写真の建造物は古代ギリシャ・ローマの時代に建てられたもの。(IMAGES & STORIES/ALAMY/ACI)

トルコ北西部にあるトロイアの遺跡。長年の間にこの場所にはいくつかの都市が建設されており、写真の建造物は古代ギリシャ・ローマの時代に建てられたもの。(IMAGES & STORIES/ALAMY/ACI)

 戦争を主題とした『イーリアス』に、兵器や武器についての詳細な記述が多いのは当然だろう。ここで描写されているさまざまな武器の中でも、特筆すべきはアキレウスの防具だ。

 アキレウスはこの叙事詩のなかでふた揃いの防具を手にしており、それぞれこの戦争の二つの局面で登場する。

 戦場で活躍していたアキレウスは、ある時、ブリセイスという名の女性を奪った司令官アガメムノンに激怒して、戦場に出ることをやめてしまった。

 アキレウスは、並外れた装備に恵まれていた。神ポセイドンから贈られた軍馬、ケンタウロスのケイローンから贈られたトネリコの槍、そして「神々がペレウスに与えた防具」(『イーリアス』第18巻84行目)を持っていた。(参考記事:「怪物ミノタウロスが古代の人々を魅了したのはなぜ?」

トロイアの王子ヘクトールは叙事詩『イーリアス』の中でいくつかの異名で呼ばれており、そのうちの一つが「きらめく兜」というもの。写真は紀元前16世紀のミケーネ人(アカイア人)の兜。アテネ国立考古学博物館。(DEA/ALBUM)

トロイアの王子ヘクトールは叙事詩『イーリアス』の中でいくつかの異名で呼ばれており、そのうちの一つが「きらめく兜」というもの。写真は紀元前16世紀のミケーネ人(アカイア人)の兜。アテネ国立考古学博物館。(DEA/ALBUM)

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ギリシャ神話に登場する「アキレウスの鎧」って何か特別な効力のある鎧な... - Yahoo!知恵袋


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2016/9/22 8:47


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14164627684

TikTokでluminous womanをチェック! 新しい国が古い国と戦う。新しい国は石油でも土地でもなく歴史が欲しいのだ。 ロシアはなぜウクライナを欲しがるのか?それはロシアより歴史があるからだ。

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ロシアはなぜウクライナを欲しがるのか?それはロシアより歴史があるからだ。

11月13日。細川忠興「家中の者どもは将棋の駒と思え」|久恒 啓一

11月13日。細川忠興「家中の者どもは将棋の駒と思え」|久恒 啓一

11月13日。細川忠興「家中の者どもは将棋の駒と思え」

細川 忠興(ほそかわ ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

足利氏の支流・細川氏の出身で、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて戦国の世を生き抜き、肥後五十二万石の基礎を築く。

関ヶ原の論功行賞で丹後12万石から黒田豊前国中津33万9,000石に国替のうえ加増した。前領主は黒田長政である。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので39万9,000石の大名となった。その後中津城から完成した小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となる。

正室は明智光秀の娘・玉子で、細川ガラシャ夫人として知られている。 父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。

「天下の政治は、四角い重箱に丸い蓋をするようになさいませ」。2代将軍徳川秀忠に、天下の政治をどのようにすればよいか聞かれてこのように答えている。あまり細かいことを指摘するなという教えである。

父・細川幽斎はまれにみる才人であった。忠興は「齢八十にして、親父の云うことようやく心得たり」と述懐している。忠興は努力の人であった。

冒頭の「将棋の駒」は息子へ忠隆が部下の統制について尋ねたときの回答である。つまり飛車や角などは重役陣であり、金銀は中枢を担う管理職であり。桂馬や香車は戦闘現場で働く指揮官である。それぞれが大事な役割を果たす大事な部下だ。「しかし、一番大事にしなければいけないのは歩だ。歩を大事にしない王はやがて窮地に陥る」と最後に述べている。先にあげた徳川秀忠に対する答えと同様に、トップの心構えとして出色の教えである。

10 Hidden Details You Missed in The Odyssey https://youtu.be/nN1lEcrNvwM?si=jVoIZXhox1ry7yRL

2026年7月26日日曜日

「英雄たち 武蔵国造」の検索結果 - Yahoo!検索

https://search.yahoo.co.jp/search?p=英雄たち%20武蔵国造&ei=UTF-8 【NHKBS「英雄たちの選択」】 磯田道史氏がプレンゼンターの「英雄たちの選択」に教員の若狭が出演します。 「シリーズ古墳時代(1)黄金の馬を育てよ―地方豪族から見たヤマト王権―」というメニューで、 具体的には、日本書紀に書かれた安閑天皇元年の「武蔵国造の乱」に絡めて、東国豪族の雄であった上毛野氏がいかなる選択をしたか、という内容です。 藤岡市の七輿山古墳などが取り上げられ、「上毛野」の古代の優位性と地政学的位置の重要性が語られます。 スタジオでは、考古学からは若狭が、文献史学からは川尻秋生先生(早稲田大学)が、磯田氏とトークします。 BS4K、BSともに本放送と再放送があります。 [BSP4K] 本放送   2025年2月 27日 (木) 20:00~20:59 再放送       3月3日(月) 13:30~14:29  3月5日 (水) 08:30~09:29 [BS]  本放送   2025年3月3日 (月) 21:00~21:59 再放送       3月10日 (月) 11:00〜11:59

【序】宮崎の神社めぐり~失われた十支族 | いつでもどこでも読書会

【序】宮崎の神社めぐり~失われた十支族 | いつでもどこでも読書会

【序】宮崎の神社めぐり~失われた十支族

約2日間だけでしたが宮崎県内の神社をめぐりました。

・・とおもむろに掲示するイスラエル十二支族の紋章。


現在、「ユダヤ人」とされているのはユダ族とベニヤミン族の二支族で
他の十支族は北イスラエル王国の滅亡とともに行方不明らしい。

ルべン族の紋章は太陽、
ダン族の紋章は蛇、
ナフタリ族の紋章は鹿、
ゼブルン族の紋章は帆船、
マナセ族の紋章は椰子、

・・・何となく古い時代に海を渡って
日本列島に渡来した人たちを思わせる図柄です。

シメオン族の紋章は剣と魔法瓶、
ガド族の紋章は天幕、
アシェル族の紋章はオリーブ、
イッカサル族の紋章は驢馬、
エフライム族の紋章は葡萄。

砂漠や草原で暮らした後
既に稲作が広まっていた日本に渡来したかもですね~。


旅のテーマは宮崎にて失われた十支族の痕跡を探る・・ってことでした。

私は最後の10人目として便乗&同行したにすぎません。

裏のテーマとしてはコンサート観賞というのもありました。

途中参加でめぐった神社は

荒立神社(西臼杵郡高千穂町)猿田彦命・天鈿女命
大御神社(日向市)
天照皇大御神
鵜戸神社(日向市)鵜葺草葺不合命、他
都農神社(児湯郡都農町大己貴命
都萬神社(西都市)
木花開耶姫命
鵜戸神宮(日南市)鵜葺草葺不合命、他
青島神社(宮崎市)彦火火出見命・豊玉姫命・塩筒大神

七社でした。

都農神社の新紋は私の母の実家の家紋と同じ。
160716_1508~010001.jpg
神社の人に聞いてみたら
家紋で〇一紋を使っている人は宮崎には殆どいないそうで
過去に鹿児島で家紋として使っている人はお参りに来てるらしい。

母方祖父は長崎で工場を経営している頃に
鹿児島の人を何人か住み込みで雇っていたらしいけど
何かつながりがあるのかもしれませんー。

サクヤヒメを祀る都萬神社の新紋は桜です。
160716_1612~01.jpg
今後はポツポツと宮崎の旅の話も登場するかも―。

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「イスラエルの失われた十支族」の移住伝説|尾登雄平(世界史ブロガー・ライター)

「イスラエルの失われた十支族」の移住伝説|尾登雄平(世界史ブロガー・ライター)

「イスラエルの失われた十支族」の移住伝説

見出し画像

「イスラエルの失われた十支族のうちのひとつが日本にやってきて支配層となった」というお話は耳にしたことがあるかもしれません。

その根拠は、儀礼や祭祀、言語、習慣などに日本とイスラエルと間で似ている事柄があまりにも多くあるというものです。
なかなか面白い話でロマン溢るるのですが、同じように世界各国の国や民族が「イスラエルの失われた十支族がうちにやってきていた」と主張しています。今回は「日本以外」の十支族の移住伝説をピックアップしてみます。

1. イスラエルの失われた十支族とは

旧約聖書に記されたイスラエルの十二支族のうち、十支族がイスラエル王国(北王国)に住んでいたが、アッシリアによって王国が滅ぼされ、その後捕虜になって連れ去られ、以降行方が分からなくなったと旧約聖書に記されています。

具体的な名前を挙げると、アシェル族、イッサカル族、エフライム族、ガド族、シメオン族、ゼブルン族、ダン族、ナフタリ族、マナセ族、ルベン族の計十支族。

ユダ王国(南王国)に住んでいたユダ族とベニヤミン族は失踪を免れ、この二族が後のユダヤ民族の祖となっていきます。
この十支族の行方については、旧約聖書に断片的に記されています。

彼らは先祖たちの神にむかって罪を犯し、神が、かつて彼らの前から滅ぼされた国の民の神々を慕って、これと姦淫したので、イスラエルの神は、アッスリヤの王プルの心を奮い起し、またアッスリヤの王テルガテ・ピルネセルの心を奮い起されたので、彼はついにルベンびとと、ガドびとと、マナセの半部族を捕えて行き、ハウラとハボルとハラとゴザン川のほとりに移して今日に至っている。

「歴代志上」第5章25~26節

イスラエルの王ペカの世に、アッスリヤの王テグラテピレセルが来て、イヨン、アベル・ベテマアカ、ヤノア、ケデシ、ハゾル、ギレアデ、ガリラヤ、ナフタリの全地を取り、人々をアッスリヤへ捕え移した。

「列王記下」第15章29節

アッスリヤの王シャルマネセルが攻め上ったので、ホセアは彼に隷属して、みつぎを納めたが、アッスリヤの王はホセアがついに自分にそむいたのを知った。それはホセアが使者をエジプトの王ソにつかわし、また年々納めていたみつぎを、アッスリヤの王に納めなかったからである。そこでアッスリヤの王は彼を監禁し、獄屋につないだ。そしてアッスリヤの王は攻め上って国中を侵し、サマリヤに上ってきて三年の間、これを攻め囲んだ。ホセアの第九年になって、アッスリヤの王はついにサマリヤを取り、イスラエルの人々をアッスリヤに捕えていって、ハラと、ゴザンの川ハボルのほとりと、メデアの町々においた。

「列王記下」18章11~12節

これを読むと、アッシリアのイスラエル侵入は一度ならず度々あって、その都度かなりの規模で集団捕虜になっていることが分かります。

若干記述が異なるのですが、アッシリアの「ハウラ、ハボル、ハラ、ゴザン川、メデアの町」これは現在のシリア北東部、イラク北西部にあたる地域ですが、そこに連れ去られたことになっています。

その後、十支族がどこに行ったか正確なことはあまり分からず、現地に溶け込んだ者、さらに別の場所に追放になった者、イスラエルの地に戻った者など様々いたと思われます。聖書外伝やタルムード(モーセの口伝律法書)やミドラーシュ(聖書解釈書)にその行方が記されていますが、体系的にまとまっているわけではありません。

例えば、エルサレム・タルムードという書によれば、十支族は3つのグループに分かれてさらに、サンバティオン川(Sambation)、サンバティオン川の後ろの遠い土地、アンティオキア近郊のダフネにそれぞれ住んだそうです。

 失われた十支族がどこに行ったかは古代からすでに様々な説が打ち出されており、 過去の人たちが打ち出した膨大な説の数々それ自体が歴史物語みたくなっています。

2. ヨーロッパ諸国の祖になった説

失われた十支族の伝説が最も多く存在するのがヨーロッパ諸国です。 
特に十支族渡来伝説が人気があるのがイギリス。ブリテン島に十支族が渡ったという伝説は少なくとも16世紀ごろから語られ始めたようです。

その主張によると、失われた十支族はアッシリアに捕囚された後は故国には戻らず、130年の時間をかけてヨーロッパに行き、その一部が後にイングランドの支配民族となるサクソン族となった、というものです。その根拠として、サクソン(Saxon)は「イサクの息子(Sacs-son)」という意味だ、と主張します。

20世紀に入ると、大英帝国のパレスチナ支配に対する正当化として利用されるようになります。「イギリス人=失われた十支族」伝説の支持者は1919年に「イギリス・イスラエル世界連盟」を設立し、失われた十支族の末裔であるイギリス人がイスラエルの祖ヤコブとの約束を果たしてパレスチナに繁栄をもたらす、という文脈を展開しました。
しかしこれらの主張は、言語学・聖書学・歴史学の観点からの証拠がほぼなく、一般的には偽史の一種とみなされています。

ヨーロッパには同じような形で、十支族が自分たちの祖になったという伝説があちこちに存在します。
例えばフランスでは、フランク族は十支族の直接的な末裔で、メロヴィング朝の王はダビデ王の直系の子孫であるという伝説があります。

アイルランドでは、アイルランドの神の一族とされるトゥアハ・デ・ダナーンのアイルランド上陸神話は、ダン族がアイルランドへ上陸した歴史を語っているとされます。

北欧でも十支族上陸神話は根強く、デンマーク人が自らを「ダン族の末裔」と言ったりとか、フィンランド人はイッカサル族の末裔で「父親」を意味するフィン語「Isä」はヘブライ語から来ているとか、ノルウェー人はナフタリ族の末裔などなど、数えきれないほど伝説が存在しています。

3. インド、エチオピア移住説

インドには「ベネ・イスラエル」と呼ばれる在インドのユダヤ人のコミュニティがあります。商業活動に従事するユダヤ人が、長年に渡って何世代もかけて渡り住んできたもので、11~15世紀ごろにインドに定住したと言われていますが、実はこのベネ・イスラエルこそが十支族の末裔だという伝説があります。

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14〜15世紀のユダヤ人学者アブラハム・ファリソルによると、ゴザン川に捕囚されていた十支族の一部はサンバティオン川に移住させられますが、このサンバティオン川こそガンジス川のことであるそうです。そして「サンバティオン川の後ろの遠い土地」はアビシニアことエチオピアであると言いました。

 実際にエチオピアには「ベタ・イスラエル」と呼ばれる自らユダヤ人の末裔と主張する人々がいて、口頭伝説によるとダン族の一部の末裔であるそうです。

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ベタ・イスラエルの人々は、公式にイスラエル政府にユダヤ人の末裔と認定されているため、その大半が「故郷」であるイスラエルに移住しています。
 長年の混血で見た目がアフリカ系と見分けがつかず、ヘブライ語も話さない彼らは差別の対象になりやすく失業率も高く、社会問題になっているそうです。

4. ナイジェリア、ジンバブエ移住説

エチオピア以外にも、アフリカに移住したという伝説があります。
ナイジェリアのイボ人の中には、自分たちは十支族の末裔であるためイスラエル市民権を得る資格があると主張する人たちがいます。

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Photo by Saverx

この主張を始めたのが、18世紀イボ人出身の奴隷で後に解放奴隷となったオラウダ・イクイアーノという人物。彼は自由民となった後キリスト教徒になってイボ人に伝道しようとした人物で自伝を残しているのですが、その「アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語」の中で彼はギル博士なる人物が「アブラハムの子孫はアフリカ人となったと推測している」と述べています。

この主張は、言語学・歴史学・考古学・その他様々な学術的観点からフェイクであると断定されていますが、実際にナイジェリアにはシナゴーグがあってユダヤ人の子孫は熱心に信仰を守っており、自分たちはユダヤ人の末裔であると信じています

彼らのうち少なくない数が「故郷」に戻るためにイスラエルに移住を試みていますが、移住というか不法移民に近く、イスラエル政府も彼らをユダヤの子孫と認めていないため、生活や就労など困難を強いられているようです。

その他、ガーナのセフウィ族は「安息日」「生後8日の幼児に割礼を施す」「13歳成人」などユダヤ人と同じ慣習を多く有するため、部族の一員であるアーロン・アートレ・トアキラファ(Aaron Ahotre Toakyirafa)という男が十支族の末裔ではないかという主張を打ち出しました。この主張は認められていませんが、15世紀にスペインから追放されたユダヤ人がこの地に流れ着いた可能性が指摘されています。

さらにさらに、南アフリカ・ジンバブエに住むレムバ族は自分たちは十支族の末裔であると信じており、イエメン、東アフリカを経てジンバブエに至ったと主張しています。

5. アフガニスタン移住説

アフガニスタンの多数派民族であるパシュトゥーン人の間では、自分たちは十支族の末裔であるという伝説が語り継がれています。

パシュトゥーン人の部族は結束力が強く、それぞれ独自の文脈を一族で語り継いでいるのですが、例えばユスフザイ部族の人々は、レビ族、ルベン族、エフライ族、ガド族、ベンヤミン族の子孫であると信じているそうです。

伝承だけでなく、実際にパシュトゥーン人とユダヤ人との間には共通の慣習が多くあるそうです。例えば「結婚式でグラスを壊す」「生後8日の幼児に割礼を施す」「乳と肉を一緒に食べない」「甲殻類を食べない」など。

確かにここまで同じであれば、何か共通の文化性を感じてしまいますね。実際にイスラエル政府もパシュトゥーン人がユダヤ人の末裔である可能性を認めていますが、正式認定まではされていません。

6. 中国移住説

中国の開封に長年ユダヤ人コミュニティが存在していたことは有名です。

少なくとも宋の時代には存在しており、シナゴークも存在し教えを守りながら生きており、19世紀までコミュニティはあったそうです。

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彼らがいつどのような形で中国にやってきたかは複数の説があり、十支族の末裔だという説もあれば、2世紀のバル・コクバの反乱でローマ帝国によってパレスチナを追われたユダヤ人が流れ着いた説や、ペルシャ在住のユダヤ商人が商売のため開封に住み着いた説などいくつか存在します。

DNA調査によると、開封のユダヤ人はアルメニア人、イラン人、イラク人の遠い親戚であることが証明されました。イランやイラクに定住し原住民と混血しユダヤ的文脈を受け継ぐ人が、ビジネスのため中国にやってきて定住しと考えるのが妥当な気がします。

現在の開封にもユダヤ人コミュニティが存在しますが、一部の人間は「故郷」であるイスラエルに移住したそうです。

7. アメリカ移住説

モルモン教の聖書「モルモン書」のニーファイ第一書によると、預言者ニーファイによって紀元前600年ごろアメリカ大陸が発見されたそうです。モルモンの教えによると、十支族はネイティブ・アメリカンの祖になったそうです。

チェロキー族のビバリー・ベイカー・ノーサップという人は、2001年に「We Are Not Yet Conquered」という本を出版し、チェロキー族は大西洋を渡った十支族とネイティブ・アメリカンの混血であるという主張を展開しています。

南米の先住民族が失われた十支族という説もあります。

1644年、オランダに住むポルトガル系ユダヤ人のラビ、メナシェ・ベン・イスラエルという男は、“Mikveh Yisrael”という著作の中で、失われた十支族は南米に逃げアメリカ先住民になったと主張しました。

ベン・イスラエルは、南米エクアドルの森林地帯から戻ったアントニオ・デ・モンテズィノスという男が「エクアドルで失われた部族の一人に会った」という証言を基にして本を書き、十支族がイギリスに渡っていたという前提で、イギリスに住むユダヤ人の待遇の改善を図り、離散状態にあるユダヤ人の集合を推進しようとしました。

しかし、これは先述のイギリス・イスラエル世界連盟の主張のように、「祖国の統一」の大義の下、大英帝国のアメリカ大陸の支配への正当性を与えるものにもなりました。

まとめ

書いていてあまりにも情報量が多いので頭が痛くなってきました。
これ全部でなく、世界中にもっとたくさんの「イスラエル十支族来訪伝説」が存在します。全部集めて紹介するだけで本一冊書けるんじゃないかとすら思えます。

どれが真実であるかの検証はしないし、ぼくにその能力はないのでやりませんが、「由緒正しさ」というのは後世の人にかくも利用されるものなのだな、と思いました。

途中で何度も書き換えがあったと思われますが、何千年も民族の歴史を受け継いできたユダヤ人はやっぱり偉いし、いろんな人たちから利用されてる感はありますが、歴史は民族の資産なのだなとつくづく思います。

参考サイト

 "Where Are the Ten Lost Tribes of Israel?" Chabad.org

 "TRIBES, LOST TEN:" By: Executive Committee of the Editorial Board., Joseph Jacobs  Jewish Encyclopedia

"Are the British Descended from the Ten Lost Tribes?" the Librarioans

"Lost Ten Tribes Have Been Found and You Will Never Believe Who They Are" Breaking Israel News

">The Jews of China and the Lost Tribes of Israel" Dr. Claude Mariottini – Professor of Old Testament

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2026年7月24日金曜日

テレ朝POST » 「なぜ明智光秀は織田信長を裏切ったのか」“本能寺の変”の新事実に爆笑問題&阿川佐和子も驚愕!

吹割の滝 | 見る | 沼田市観光協会

UFOと日本人(1):江戸時代に漂着した謎の美女と円盤型乗り物―「うつろ舟」伝説の謎を追って | nippon.com

UFOと日本人(1):江戸時代に漂着した謎の美女と円盤型乗り物―「うつろ舟」伝説の謎を追って | nippon.com

UFOと日本人(1):江戸時代に漂着した謎の美女と円盤型乗り物―「うつろ舟」伝説の謎を追って

享和3年(1803年)、常陸(ひたち)国(茨城県)の海岸に円盤のような乗り物が漂着し、その中から見慣れぬ服装の美女が箱を抱えて現れた。言葉は通じず、舟の中には謎の文字が書かれていた―江戸時代のさまざまな文書に記された「常陸国うつろ舟奇談」の背景には、実際に不思議な漂着事件があったのか。岐阜大学の田中嘉津夫名誉教授は、長年「うつろ舟」研究に取り組んでいる。専門の光情報工学とはかけ離れた研究になぜ取り組むようになったのだろうか。

実態のあるミステリー

「もともとは1995年のオウム事件が発端です。教祖・麻原彰晃の予言や空中浮揚などで注目されたカルトの幹部メンバーは、理系のエリートたちでした。それで、大学で“超常現象”を科学的に考察させるための講義を始めることになり、教材としてアメリカのUFO情報や日本の伝承など、さまざまな資料を集め始めました。その過程で出会ったのが『うつろ舟』伝説です」と田中氏は言う。「米国でUFO伝説が生まれるはるか前、江戸時代の日本の文書に描かれた乗り物が、なぜか空飛ぶ円盤に似ている。これは面白いと思いました」

UFOが初めて注目されたのは、1947年6月24日、米国人実業家ケネス・アーノルドが「空飛ぶ円盤」を目撃したとメディアが報じた「アーノルド事件」だ。その後、世界各地で目撃情報が相次ぐ。中でも、47年7月、ニューメキシコ州ロズウェル近郊にUFOが墜落したとされる「ロズウェル事件」が有名だ。「でも、結局回収されたといわれるUFOの残骸も、宇宙人の死体も見つかっていない。目撃者の曖昧な証言があるだけです。同様に、世界中のUFO情報は全て“実態のないミステリー”です。ところが、『うつろ舟』伝説は、いくつもの古文書を手掛かりに調査できるという意味で、研究者にとって“実態のあるミステリー”なんです」

甲賀忍者が記した具体的な漂着地

江戸時代には、全国各地に似たような「うつろ舟」(「うつぼ舟」とも呼ばれる)伝承があった。田中氏が研究対象としているのは、1803年 (日付は資料によって異なる)、常陸国の浜辺で起きたと記し、美女と奇妙な乗り物の絵図が描かれたいくつもの古文書だ。中でも『南総里見八犬伝』の作者、曲亭馬琴が文人サークル「兎園(とえん)会」で集めた風変りなうわさ話を記録した『兎園小説』(1825年)や長橋亦次郎(またじろう)による『梅の塵(ちり)』(1844年)が早くから知られていた。その他『鶯宿(おうしゅく)雑記』『弘賢(ひろかた)随筆』、日本に漂着した異国船や国外へ漂流した日本人の記事などを記録した『漂流記集』などがある。

最初はロシアの捕鯨船の海難事故が脚色されて伝わったのではないかと仮説を立てていたが、該当しそうな海難事故を記録した公文書は見つからない一方で、次から次に新しい資料が見つかり、さまざまな背景を探ることにのめり込んでいった。これまでに常陸国うつろ舟伝説の関連文書は11種類見つかっているが、その中に特に興味深い仮説に結び付く二つの文書がある。ともに事件が起きた1803年の記録だとされている。

松平定信の家臣だった駒井乗邨(のりむら)の『鶯宿雑記』(1815年ごろ)から(国会図書館蔵)
松平定信の家臣だった駒井乗邨(のりむら)の『鶯宿雑記』(1815年ごろ)から(国会図書館蔵)

幕臣で能書家でもあった屋代弘賢(やしろ・ひろかた)の『弘賢随筆』(1825年)から。弘賢は兎園会のメンバー(国立公文書館蔵)
幕臣で能書家でもあった屋代弘賢(やしろ・ひろかた)の『弘賢随筆』(1825年)から。弘賢は兎園会のメンバー(国立公文書館蔵)

一つは、茨城県水戸市在住の古文書収集家が所有する「水戸文書」だ。田中氏は絵図の女性の衣服が、茨城県神栖(かみす)市の養蚕信仰の寺、星福(しょうふく)寺の蚕霊(さんれい)尊の衣服に似ていることに気付いた。もともと茨城県には養蚕の誕生にまつわる「金色姫伝説」があり、星福寺の仏像も金色姫をモチーフにしている。天竺(てんじく=インド)から繭の形をした丸木舟に乗った姫が常陸国に漂着し、面倒を見てくれた地元の夫婦への恩返しに、養蚕の技術を授けて昇天したという言い伝えだ。これまでに見つかっている11種の文書に描かれた女性の衣服には違いがあり、金色姫との関連を強くうかがわせる描写は「水戸文書」のみだという。鹿島灘でうつろ舟のうわさが出た時に、当時の星福寺の人たちが寺のプロモーションに利用した可能性があると、田中氏は考えている。

もう一つさらに重要なのは、甲賀流忍術を受け継ぐ忍術研究家・武術家、川上仁一氏が保有する「伴家(ばんけ)文書」だ。他の文書では漂着現場を「小笠原越中守(えっちゅうのかみ)の知行所」として、「はらやどり」浜など、特定できない地名を記しているが、同文書では「常陸原舎り濱(ひたちはら・しゃりはま)」という実在の地名が記されていた。伊能忠敬が1801年に測量し作成した地図、「伊能図」に記載された地名で、現在の茨城県神栖(かみす)市波崎舎利浜(はさき・しゃりはま)にあたる。「他の文書には矛盾があって、そもそも小笠原越中守の領地は鹿島灘周辺にはありません。ところが、『伴家文書』には小笠原の名前はない代わりに、実在の地名が載っている。川上先生に聞くと、伴家(甲賀忍者)が仕えた尾張藩主の参勤交代のために情報収集をしていたのではないか、という見立てでした。それならうそは書けませんから、文書の信ぴょう性は高いと言えます」

Scientists Compared Ancient Japanese DNA To Every Asian Civilization — T... https://youtu.be/Zye4YpKmY_o?si=P5Hft3TSXONgXRzd

2026年7月19日日曜日

邪馬台国は阿波だった!? 卑弥呼にまつわる徳島の地を巡る旅 | 徳島県観光情報サイト阿波ナビ

邪馬台国は阿波だった!? 卑弥呼にまつわる徳島の地を巡る旅 | 徳島県観光情報サイト阿波ナビ

邪馬台国は阿波だった!? 卑弥呼にまつわる徳島の地を巡る旅

子どもの頃、歴史の授業で誰もが習った『邪馬台国』。弥生時代の日本に存在したといわれる国で、邪馬台国の女王・卑弥呼はあまりにも有名です。日本人であれば誰もが知っている邪馬台国ですが、実はその国が日本のどこにあったのかは、江戸時代から議論が行われてきました。こうしたなか、「邪馬台国は阿波(徳島県)だった」という考察が脚光を浴びています。
そんなわけで、歴史ファンの間で大注目の徳島。そんな徳島の邪馬台国にまつわる場所を巡る3日間のツアーが開催されていたので、参加してきましたよ!

忌部神社でいただく阿波の献上料理

徳島市二軒屋町にある『忌部神社』。歴史ファンであれば『忌部(いんべ)』という名は聞いたことがあると思いますが、忌部氏は古くから朝廷の祭祀を担当してきた氏族です。そして、天皇即位の際の大嘗祭(だいじょうさい、おおなめまつり)で備えられる麻の織物『麁服(あらたえ)』を作るのが、阿波忌部の役割となっています。かつての大嘗祭では、吉野川市にある忌部神社で麁服が織られ、徳島市の忌部神社の宮司が斎主となって神事が行われました。

今回のツアーでは、そんな忌部神社でお参りをした後に、かつての大嘗祭で天皇に献上したとされる『阿波の献上料理』をいただきました。詳細なレシピは残っていないため、当時の食材から献立を予想して作った料理ですが、忌部神社でいただくと古の大嘗祭に思いを馳せることができます。

阿波の卑弥呼伝説が眠る場所

今回のツアーの2日目と3日目は、古代阿波の面影を感じられる様々な場所を巡りましたが、当記事ではその中から邪馬台国と卑弥呼にまつわるスポットを3つご紹介します。

上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)

卑弥呼を語る説の中には、天照大神(あまてらすおおみかみ)と卑弥呼は同一人物だという説もあります。そして、徳島市から車で45分ほどの神山町にある『上一宮大粟神社』は、天照大神が須佐之男(スサノオ)との戦いで一時撤退した場所だといわれているのです。つまり、それが正しいならば、上一宮大粟神社は戦いに傷ついた卑弥呼が心身を癒しにやってきた場所ということ。歴史ファンにとっては、かなりのパワースポットということになりますね!

所在地:徳島県名西郡神山町神領西上角330

大御和神社(おおみわじんじゃ)

2箇所目は徳島市国府町にある『大御和神社』です。その御神紋は「鍵」でり、こくじと国家の鍵を守護したと伝わっています。このことから、古代では徳島の地が日本の中心であったと考えられ、日本最古の国とされる邪馬台国も徳島にあったのではないかと言われているのです。

所在地:徳島県徳島市国府町府中644
https://oomiwa-jinjya.jp/

天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)

3箇所目は阿波の卑弥呼伝説の大本命といえる場所です。それが、大御和神社と同じ徳島市国府町にある『天石門別八倉比売神社』。こちらの御祭神は大日霊女命(おおひるめのみこと)別名天照大神であり、『卑弥呼=天照大神』説が正しければ、卑弥呼が祀られた神社ということになります。そもそも、天石門別八倉比売神社がある国府町の『国府』とは国の行政府のことであり、このこともかつてこの地が日本の中心であったことを示しているといえるかもしれません。
また、天石門別八倉比売神社は阿波史跡公園の中にあり、周辺には約200もの古墳が存在しています。天石門別八倉比売神社も古墳の上に建てられており、前方後円墳の前部に社殿があり、後部は奥の院となっています。その奥の院には石積みの祭壇が置かれていて、一説によるとその祭壇こそが卑弥呼の墓だとされているのです。そのことから、阿波の地がかつての邪馬台国だったのではないかといわれています。

所在地:徳島県徳島市国府町西矢野字宮谷531

卑弥呼サミット vol.4

なお、ツアーの初日には、「邪馬台国は阿波だった」と地域を盛り上げているイベント『卑弥呼サミット』が行われました。今回で4回目の開催となる当イベントでは、都市伝説界のレジェンド・山口敏太郎さんなどをゲストに迎え、講演やパネルディスカッションで阿波の卑弥呼伝説について議論を行っていました。

様々な情報や史実を提示していただき、徳島県には古代から文明があり、邪馬台国があったかもしれないと感じることができる、興味深い内容でした。
※詳しく知りたい方はYouTubeチャンネル『邪馬台国は阿波だった!』をチェックしてみてください。

今回のツアーは旅行代理店などの現地視察を目的としたツアーだったわけですが、今後、一般の方が参加できる阿波の歴史ツアーも増えていくと思います。今後開催されるツアーに参加したり、今回紹介したスポットをぜひ自分の足でまわってみてください。きっと、はるか昔の女王からパワーを貰えるはず。

~そのほかにも・・・~

〇立岩神社(徳島県名西郡神山町鬼籠野元山746)

なぜロシアは戦争が下手なのか?指導者が全員「戦争ヘタ」な理由 督戦隊

2026年7月16日木曜日

食前食後の和歌 江戸時代の国学者である本居宣長の詠んだ和歌。 ☆いたただきます 「たなつもの 百の木草も 天照す 日の大神の めぐみえてこそ」 歌意 「食物や草木の恵みは神様のおかげです。」 ☆ごちそうさま 「朝よひに 物くふごとに 豊受の 神のめぐみを 思へ世の人」 歌意 「朝夕食事を頂くときは神様に感謝しましょう。」

いただきます、ごちそうさまの本来の言葉 | 大稲荷神社「たなつもの 百(もも)の木草(きぐさ)も 天照(あまてら)す 日の大神の めぐみえてこそ」 「朝よひに 物くふごとに 豊受(とようけ)の 神のめぐみを 思へ世の人」 本居宣長と『玉鉾百首』

いただきます、ごちそうさまの本来の言葉 | 大稲荷神社

いただきます、ごちそうさまの本来の言葉

2025年08月21日

いただきます、ごちそうさまの本来の言葉

食事の前に — 「いただきます」の意味

日本では食事の前に「いただきます」と言います。この言葉には、単なる挨拶以上の深い意味が込められています。

神社の伝統では、食前に「食前感謝詞(しょくぜんかんしゃのことば)」を唱える習わしがあります。

まず、先導役が「静座、一拝一拍手」と告げ、全員で一拝一拍手をします。次に、先導役が節をつけて「たなつもの」と唱え、それを合図に全員で和歌を詠みます。

「たなつもの 百(もも)の木草(きぐさ)も 天照(あまてら)す 日の大神の めぐみえてこそ」

そして一同で「いただきます」と唱え、食事を始めます。

この和歌では、五穀やあらゆる作物は、天照大御神の御恵みによって育まれるものであり、人の力だけで得られるものではありません。だからこそ、毎日の食事のたびに神の恵みを思い起こすことが大切だと説いています。

食事の後に — 「ごちそうさま」の意味

食後には「ごちそうさま」と言います。この言葉も、単に食べ終わった合図ではなく、食べ物と恵みに感謝する祈りの言葉です。

伝統的には「食後感謝詞(しょくごかんしゃのことば)」が唱えられます。

先導役が「端座、一拝一拍手」と告げて一同で礼をし、先導役が「朝よいに」と節をつけて唱えます。これを合図に、全員で和歌を詠みます。


「たなつもの 百(もも)の木草(きぐさ)も 天照(あまてら)す 日の大神の めぐみえてこそ」


「朝よひに 物くふごとに 豊受(とようけ)の 神のめぐみを 思へ世の人」


本居宣長と『玉鉾百首』


その後、全員で「ごちそうさまでした」と声を揃え、食事を終えます。

この和歌には、食事のたびに、食物を司る豊受大御神の御恵みに感謝しなさい、という意味が込められています。

本居宣長と『玉鉾百首』

ここで詠まれる二首の和歌は、江戸時代の国学者・本居宣長が著した短歌集『玉鉾百首(たまぼこひゃくしゅ)』に収められたものです。

今日でも神社関係の研修会では、食事の際にこの作法が守られており、食事を前に「いただきます」、食事を終えて「ごちそうさま」と感謝を捧げる伝統が受け継がれています。

感謝の心を受け継ぐために

現代は一年を通して食材が手に入る便利な時代ですが、食べ物は決して人間の力だけで生まれるものではありません。自然の恵み、神の加護、多くの人々の労によって私たちの食卓は成り立っています。

「いただきます」「ごちそうさま」という言葉は、そうした恵みへの感謝を表す大切な言葉です。和歌を唱えるかどうかにかかわらず、感謝の心を忘れずに食事をいただくことこそ、先人から受け継ぐべき精神なのです。

アキレウス - Wikipedia