天學傳概 李祖白 Li Zubai
- 徯志(けいし):志を静かに待ち構える、心を澄ますこと。
- 昭受上帝(しょうじゅじょうてい):明らかに上帝(天の神)の命(めい)を受け止めること。
- 徯志(けいし):志を静かに待ち構える、心を澄ますこと。
- 昭受上帝(しょうじゅじょうてい):明らかに上帝(天の神)の命(めい)を受け止めること。
- 天其申命用休(てんきしんめいようきゅう):天が(その徳に応じて)重ねて美しい(めでたい)天命を授け、恵みを与えてくれるだろうという意味です。
《このようにされてこそ、天子が行われることに対して、天下の人々も大いに呼応して、天子の御意志を待つことになるでしょう。 その結果、天子は、輝かしい天帝のお恵みを受けられ、天は天命があなたの上にあることを重ねて明らかにされるでしょう》
←角川訳はダメ
「心を清らかにして、上帝の意志を受信しなさい」
B
見之《詩》
★曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」「詩経」大雅・文王篇 第6章
(文王の神霊は天上にあり、あの天に輝きを放っている。[周は古い国ではあるが、国運に新しい気運が現れた。周の前途は実に輝かしく、天の意志は阻むことができない。]文王の神霊は昇り降りし、いかなる時も天帝の傍らにいる。)
★曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。
天鑒在下,有命既集。
上帝臨女,無貳爾心。」詩経・大雅・大明
( 文王は慎み深く細かいことにも気を配り、天の神につかえ人民の幸福を願った。
[その結果、周に多福をもたらした。])
(天は下界をみそなわし 今ぞ天命は下された。)
(上帝女<音汝>に臨めり、爾の心に貳[うたが]い無かれ。)
★曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」大雅 -文王之什 -皇矣
(皇[おお]いなるかな上帝、下を臨[み]ること赫[あき]<叶黑各反>らかなること有り)
★ 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」 詩經 -> 大雅 -> 生民之什
(天の怒りを敬んで、敢えて戲れ豫[やす]んずること無かれ。天の渝[か]<音兪>われるを敬んで、敢えて馳せ驅すること無かれ。)
★曰:「蕩蕩上帝,下民之辟。天生烝民,其命匪諶。」詩経 / 大雅・蕩之什・蕩
(広大な徳を有される天帝は
天下の民に君臨される。
そのはずの天帝が下す命には、
民を苦しめるものがこうも多い。
天は民をお産みになりはしたが、
天命は常に民を守りはしない。
人は、始めこそ慎ましくおるものの、
それを最期まで貫き通せる者は
実に少なきこと。)
★曰:「口我來牟,上帝率育。」《詩經.周頌.執競》:「貽我來牟,帝命率育。」
「口我來牟,上帝率育」 は、かなり近い形で
「貽我來牟,帝命率育」
という『詩経』の句に見えます。(ctext.org)
https://ctext.org/dictionary.pl?if=gb&char=來牟&remap=gb
「來牟」は古注で小麦や大麦を指す語として扱われています。(ctext.org)
「帝命率育」は、天帝の命によって広く養い育てるという意味で解されています。(ctext.org)
✨ 全体の意味
自然な日本語にすると、だいたい次の意味です。
(麦を与えられ、上帝の命によって人々が広く養われる。 )
★曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」閟宫(ひきゅう)
https://www.guwendao.net/mingju/juv_9ddc918fda14.aspx
《赫赫(かがや)かしきは姜嫄、その徳たがうことなければ、 上帝もここに依りたもうて、(周の先祖后稷をみごもらせたもうた)。…
(武王は言った)「ふたごころあるなかれ、虞(はかりごと)するなかれ。上帝汝を見守りたもうゆえに」と。》角川文庫 詩経
C
《魯論》「魯論(ろろん)」は、孔子の言行録『論語』の異本の一つで、現在伝わる『論語』の底本となった系統。
★曰:「獲罪於天,無所禱也。」「論語」八佾第三13
(天に対して罪を犯せば、祈っても無駄ですよ。)
★曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」「論語」雍也第六28
(もし私によくないところがあれば、天の神様は見限るだろう。天の神様は私を見捨てるだろう。)
★曰:「丘之禱久矣。」述而第七34
「私の祈りは、もうずっと以前からしている(だから今さら特別な祈祷をする必要はない)」
引用しないが岩波訳はダメ
★曰:「畏天命。」季氏第十六 8
(天命を畏れ敬う。)
D
《中庸》
★曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」中庸第十九章:武王周公其達孝 中庸19 3:2:2 新釈2:251頁
(郊外で典禮を行うのは天帝を祭ること)
https://blog.udn.com/hgprint/9183556
★曰:「上天之載,無聲無臭,至矣。」詩経(大雅文王篇)中庸33 6:3 新釈2:322頁
(「上天のことは声もなく臭いもない」と言うが、
実に聖王の徳をもって民を化するに、声もなく臭いもなくて、
民は自ら感化することを形容している。至れり尽くせりというべきである。)
E
《孟子》
★曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」梁恵王下 新釈4:50(3)
(天のことわりを楽しむ者は、天下を保ち、天に畏敬の念をいだく者は、国家を保つことができます。)
★曰:「順天者存,逆天者亡。」離婁上 4:248(7)
(天の理法に従う者は存続して栄え、天の理法に反する者は滅びる。)
★曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」卷之八 離婁章句下 中間部 4:301(25)
(どんなに醜い人であっても、斎戒沐浴して心身を清めたならば、上帝(天の神さま)もその人の祀(まつ)りを受け入れてくださるだろう。)
★曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 卷之十三 盡心章句上 177節 冒頭 4:442(1)
(誰もが心の中に持っている理義を極めつくせば、人の本性が本来善であることが分かる。本性が善であることを知れば、それを与えてくれた天をも知ることになる。己の心を常に省みて察し、善なる本性を養うことが天に仕える道である。短命か長命かなどと気に掛ける事無く、ひたすら身を修めることに務めて天寿を待つ、それが立命乃ち天命を守る道なのである。)
上帝、上天は最高神と訳すのが正しい。
この中国の初人は、まさにドイツとアジアの子孫のようです。伏羲は德亞の苗裔である。したがって、五帝三王は今日の聖君・聖師・聖臣に至るまで、皆に邪教を祖先として認めさせ、盤古三皇の新たな親祖宗をどこに置くべきか?即座に寸で祖白を斬ることは、君主や父親がいないという罪を尽くすに足りるでしょうか?中夏の人として西洋の邪教を祖先と認めるなんて、まさに雑種だ。天はなぜこの人を妖として生んだのでしょうか?
西から東へと、天学はしっかりとその懐に宿り、子孫を育み、家々に受け継がれ、家々に学び継がれ、この時、この学問は中夏にあり、今世において倍に繁栄し明晰である。伏羲の時代、カトリックの学問はすでに我が中夏家の家々に伝わり、現在の世において倍に繁栄し、明晰であった。その書物は存するに違いなく、書契は今日に至るまで存在し、カトリックの文は全く存在しない。祖白は無端にこの妖言を提唱しましたが、どの典から出たのでしょうか?祖白がどのような心の核であるかはわかりません。国家に法があれば、必ず祖白の胸を裂き、その心を探って見る。
…
彼は『書』に次のように記している。「文昭は上帝を受け、天はその申命を休める。」
『書』を引用し、九十五言。
『詩』曰く:「文王は上にあり、光は天にある。」『詩』110語を引用
《魯論》曰く「天に罪を得ても、祈るところはない。」〈『論語』の二十六言を引用する。
《中庸》曰く:「郊社の礼は、上帝に仕えるためである。」『中庸』の二十言を引用。
《孟子》曰く:「楽天者は天下を守る。」『孟子』の五十九言を引用します。
これらすべての文は、天学の微言法に他ならないのでしょうか?かつて、利瑪竇は中夏の聖書の賢伝を引用し、その邪教を文で飾った。今、祖白は中夏の聖書の堅実な伝承を語っており、これは邪教の法の微言を受けているが、祖白の罪は罰に勝るのでしょうか?
祖白之为书也,尽我大清而如德亚之矣,尽我大清及古先圣帝、圣师、圣臣而邪教苗裔之矣,尽我历代先圣之圣经贤传而邪教绪余之矣,岂止于妄而已哉!实欲挟大清之人,尽叛大清而从邪教,是率天下无君无父也。①
针对耶稣会士附会早期儒学经典,以“六经”中之“天”、“上帝”为“天主”(即拉丁文 Deus,音译为“陡斯”,“天主”为当时专门创造的词汇)。他反驳说,儒家经籍称天为“上帝”源于尊天之意,非谓天之上有一“天主”、“上帝”也:
凡此皆称上帝,以尊天也,非天自天而上帝自上帝也。读书者毋以辞害意焉。今谓天为上帝之役使,不识古先圣人何以称人君为天子,而以役使之、贱比之为君之父哉?以父人君之天,为役使之贱,无怪乎令皈其教者,必毁天地君亲师之牌位而不供奉也。不尊天地,以其无头腹手足,踏践污秽而贱之也;不尊君,以其役使者之子而轻之也;不尊亲,以耶稣之无父也。天地君亲尚如此,又何有于师哉!此宣圣父木主之所以遭其毁也。乾坤俱汩,五伦尽废,非天主教之圣人学问断不至此!②
- 杨光先:《与许青屿侍御书》,《不得已》卷上,《不得已(附二种)》,第8~10页。
- 杨光先:《辟邪论中》,《不得已》卷上,《不得已(附二种)》,第25页。
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/1831
西法批判における天学:康熙初年の暦獄を中心に
The Adoption and Conflict concerning the Qing Calendar, Shixian Li 時憲曆
橋本敬造
HASHIMOTO, Keizo
西法批判のなかの天学:康熙初年の暦獄を中心にして
橋本敬造
The Adoption and Conflict concerning the Qing Calendar, Shixian Li 時憲曆
HASHIMOTO, Keizo
The author discusses the conflict at the introduction of the Western method into the traditional Chinese calendar system in the beginning of the Qing Dynasty. It was not only the question of how to prepare the traditional Chinese calendar, which was the Luni-solar system, according to the Western astronomical system, but also the problem of how to justify to adopt the Western system instead of the traditional Chinese. This is not a new problem. But, here, we should like to discuss the issue from the point of view of the Western learning, Xixue 西学, as well as the Tianxue
*7, which means Christianity.
This is because the author's main concern here is in the development of the Rites Controversy in the early Qing period. So far this issue concerning the Qing calendar has been called the Calendar Accusation, Liyu 暦獄. The author regards the prosecution had the nature of the religious one. First of all the discussions begin with the astronomical controversies, raised by the prosecutors, Yang Guangxian 楊光先 et al. He carried on his campaign against the missionaries. In 1664, he submitted to the Board of Rites the document in which he charged Johann Adam Schall von Bell, Tang Ruowang 湯若望. with several alleged errors in astronomical calculations and accused the missionaries of plotting against the state and of indoctrinating the people with false ideas.
He [楊光先 Yang Guangxian (1597-1669)] referred to the view mentioned in the Tianxue chuankai 天學傳概 [History of Christian Church in China], written in 1664 by the convert, Li Zubai 李祖白. He developed the ideas that man had originated in Judea and that a branch of the human family migrated to China under the leader, tentatively identified as Fuxi 伏羲. He also asserted that in ancient China God had been worshipped under the name Tian 天 or Shangdi 上帝, which was known as the Tianxue 天学, which was eventually to be revived by Ricci. This was repugnant to Yang. Including this idea, Yang produced other articles as the evidences for the accusation of the religion and the missionaries with their followers.
[楊光先Yang Guangxian (1597-1669)]は、1664年に改宗者の李祖白が著した『天学伝概』に記された見解に言及した。彼[李祖白 Li Zubai (?-1665)]は、人類はユダヤに起源を持ち、その一派が、仮説上「伏羲」と特定される指導者の率いる下で中国へ移住したという考えを展開した。また彼は、古代中国において神は「天」または「上帝」という名で崇拝されており、それが「天学」として知られていたが、後にリッチーによって復活させられることになるとも主張した。これは楊光先にとって受け入れがたいものであった。楊光先は、この考えを含め、その宗教や宣教師、そしてその信者たちを非難する根拠として、他の論考も執筆した。
Finally Yang lodged against Schall the more serious - though in fact erroneous - charge that he had deliberately fixed on the inauspicious day in 1658 for the burial of the infant prince, Rong Qinwang *#I, in order to cast spells on the parents (i.e., Emperor Shizu I * and Empress Xiaoxian *17). For the critical issues against the New Method, Xinfa #rit, now F. Verbiest, Nan Huairen I I*1=, following Adam Schall von Bell, successfully defended, because he had so far well prepared astronomically. Immediately after this prosecution, the Western astronomical system, Xifa 1412, became exclusively called the New Method. On the other hand, the religious issues were mainly treated by the senior missionary, L.
Buglio (Li Leisi fU*I.8). Here we discuss the conflict from the aspects of the both sides, religious and astronomical.
西法批判における天学:康熙初年の暦獄を中心に
橋本敬造
清暦の採用と葛藤、
時憲暦
HASHIMOTO, Keizo
著者は、清代初期において、伝統的な中国暦体系に西洋の方法が導入された際の対立について論じている。それは、太陰太陽暦である伝統的な中国暦を、西洋の天文体系に基づいてどのように作成するかという問題だけでなく、伝統的な中国暦の代わりに西洋の体系を採用することをいかに正当化するかという問題でもあった。これは決して新しい問題ではない。しかし、ここでは、西洋学(西学)および天学*7(キリスト教を意味する)の観点からこの問題について論じたい。
これは、著者がここで主に注目しているのは、清代初期における「礼論争」の展開であるためである。これまで、清の暦に関するこの問題は「暦誣告(Liyu fit)」と呼ばれてきた。著者は、この訴追には宗教的な性質があったと見なしている。まず、議論は、告発者である楊広賢(t5 J5t)らが提起した天文論争から始まる。彼は宣教師たちに対する攻撃を続けた。1664年、彼は礼部へ文書を提出し、ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベル(唐若望)に対し、天文計算におけるいくつかの誤りを指摘するとともに、宣教師たちが国家に対する陰謀を企て、民衆に誤った思想を植え付けていると非難した。
彼は、1664年に改宗者の李祖白**Éが著した『天学伝開』KH#* [中国におけるキリスト教会の歴史] に言及した。彼は、人類はユダヤに起源を持ち、人類の一派が、仮説上「伏羲」i**と特定される指導者の下で中国へ移住したという考えを展開した。また、古代中国では「天科尚帝F #i」という名で神が崇拝されており、これは「天学*7」として知られ、後にリッチーによって復活させられることになると主張した。これは楊にとって受け入れがたいものであった。この考えを含め、楊は宗教や宣教師、そしてその信者たちを告発する証拠として、他の論考も執筆した。最終的に、楊はシャルに対し
なぜなら、著者がここで主に注目しているのは、清代初期における「礼論争」の展開だからである。これまで、清の暦に関するこの問題は「暦誣(Liyu fit)」と呼ばれてきた。筆者は、この告発が宗教的な性質を持っていたと見なしている。まず、議論は告発者である楊光賢(t5 J5t)らが提起した天文論争から始まる。彼は宣教師たちに対する攻撃を続けた。1664年、彼は礼部へ文書を提出し、その中でヨハン・アダム・シャル・フォン・ベル(唐若望)に対し、天文計算におけるいくつかの誤りを指摘するとともに、宣教師たちが国家に対する陰謀を企て、民衆に誤った思想を吹き込んでいると非難した。
nxue chuankai KH#* 『中国キリスト教史』は、1664年に改宗者の李祖白**Éによって著された。
彼は、人類はユダヤに起源を持ち、人類の一派が、仮説上「伏羲 i**」と特定される指導者の率いる下で中国へ移住したという考えを展開した。また彼は、古代中国において神は「天(Tian)または上帝(Shangdi)F #i」という名で崇拝されており、これは「天学(Tianxue)*7」として知られていたが、後にリッチーによって復活させられることになると主張した。これは楊にとって受け入れがたいものであった。楊はこの考えを含め、宗教や宣教師、そしてその信者たちを告発する証拠として、他の記事も執筆した。
最後に、楊はシャルに対し、1658年に幼い王子である栄秦王*#Iの埋葬に不吉な日を選んだのは、両親(すなわち、思祖帝I*と孝献皇后*17)に呪いをかけるためであったという、より深刻な――実際には誤りではあるが――告発を行った。「新法(Xinfa #rit)」に対する批判的な論点については、アダム・シャル・フォン・ベルに倣ったナン・フアイレン I I*1=(現F. フェルビエスト)が、それまでに天文学的な準備を万全に整えていたため、見事に反論に成功した。この告発の直後、西洋の天文学体系「西法(Xifa 1412)」は、もっぱら「新法」と呼ばれるようになった。一方、宗教的な論点は主に、上級宣教師L.
ブグリオ(Li Leisi fU*I.8)が主に担当した。ここでは、宗教的側面と天文学的側面の双方の観点から、この対立について論じる。
DeepL.com(無料版)で翻訳しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%85%95%E3%81%AE%E6%9A%A6%E7%8D%84
康煕の暦獄(こうきのれきごく、康煕暦獄)とは、清王朝の康煕三年(1667年)、楊光先(1597年-1669年)の訴えをきっかけとして、西洋暦法の編纂に関わったイエズス会の宣教師や漢人が断罪された事件。楊光先事件などとも呼ばれる[1][2]。
宣教師は一部を残して北京を追放され、漢人の協力者のうち、数名が斬罪に処された。このあと数年間、西洋暦法は停止された。イエズス会士らは欽天監の職を追われて、数名を残して首都から遠ざけられた。各地のキリスト教の教会も閉鎖された。事件の背後には満州人と漢人、あるいは満州人同士の政治的な闘争があり、イスラム教徒も含めた文化的な闘争が絡んでいた。
イエズス会士が去ったあと、暦は大統暦を用いたとも、大統暦にイスラム系の回回暦を混合して用いたともいわれる。満州人の馬祜と楊光先が欽天監の監正になるが、内部の対立もあって業務は混乱した。ただし、この時に生じた問題はいずれも、大統暦の精度の低さとは関係がない。
親政をはじめたばかりの康煕帝は、1668年ごろから徐々にこの問題に介入をはじめる。康煕帝を含め、政府上層部は暦算の知識を欠き、議論は紛糾した。しかし、最終的には高い精度が決め手となって、西洋暦法が復活、イエズス会士のフェルディナント・フェルビーストらが欽天監の運営の中心になった。また、断罪されたまま死去していたアダム・シャールらの名誉も回復された。
事態が一段落したあと、康煕帝は専横の著しかったオボイらを粛清し、権力を確立する。後に楊光先はオボイらとの結託をもって断罪されるが、実際には両者が連携していた証拠はない。
このあと、康煕帝は西洋の天文学や数学、技術を重視するようになり、イエズス会士は重用された。また、寛容令に見られるように、キリスト教に寛容な姿勢を示した。ただし、宣教師が監正に任命されることはなく、暦の表紙や暦書の書名から「西洋」の語は削除された。満州人の監正のポストも残された。
康煕帝の治世の後半に至ると、典礼論争を通じてキリスト教と中国文化との矛盾は再びクローズアップされ、康煕帝は、暦法のイエズス会士への依存を懸念するようになる。
康熙暦監獄事件(ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベル事件とも呼ばれる)は、清朝時代の1659年から1665年にかけて起こった。これは、天文局の役人である楊光賢らが、ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルや他のイエズス会宣教師を直接標的にして始めたものである。楊光賢は、シャル・フォン・ベルや他の宣教師らを、(1)反乱を企てたこと、(2)異端を広め、民衆を惑わしたこと、(3)誤った暦を使用したこと、という3つの重大な罪で告発した。
どうしたの
楊光賢は、ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルの多くの著書が異端を広め、民衆を惑わしていると虚偽の告発をした。また、「新暦の十の誤り」を列挙し、シャル・フォン・ベルの新西洋暦の様々な誤りを反駁した。さらに深刻なことに、新暦は吉凶の時を逆転させ、重大な結果を招くと主張した。特に、順治帝の皇太子である栄王の埋葬日を選ぶ際に、誤って洪範五行を用いた。山、方位、年、月すべてが禁忌に違反しており、重大な問題であった(栄王は順治帝15年に病死した。2年後、彼の生母である董娥妃も病死した。136日後、順治帝も崩御した)。
1661年、順治帝が崩御し、8歳の康熙帝が即位した。若く権力もまだ確立されていなかった康熙帝の摂政たち、特に敖蕪は、西洋の学問に一貫して反対し、外国人の政務への関与を嫌悪し、宣教師たちに敵意を抱いていた。そのため、楊光賢は敖蕪らとともに、ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルをはじめとする宣教師たちを陥れた。1664年9月26日(康熙帝の治世3年)、清朝はヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルと宮廷天文局の役人たちの合同裁判を行った。当時、シャル・フォン・ベルは73歳で、長年麻痺状態にあり重病を患っており、言葉も不明瞭だったため、フェルディナント・フェルビーストだけが彼の代理として弁論することができた。
同年の冬、敖白は新暦を廃止し、ヨハン・アダム・シャル・フォン・ベルやフェルディナント・フェルビーストなどの宣教師を逮捕した。翌年の3月16日、法廷は審議五官兼暦局長楊洪良、李祖白、宋克成、宋発、冬官局長朱光賢、中央官局長劉有泰に、緩慢な斬首刑を宣告した。 [ 1 ]
判決によれば、唐若王は翌年(康熙帝4年、1665年)にゆっくりと斬首刑に処される予定だった。しかし、その直後、空に彗星が現れ、古代の人々はこれを不吉な兆候とみなした。そして、突然、都を大地震が襲い、「地震は3日間続き、人々は屋外で寝泊まりし、不安でいっぱいだった」[ 2 ]。宮殿は地震で損壊し、いくつかの宮殿は火災に見舞われた。清朝の支配者たちはこれを天からの警告とみなし、「天は吉凶を示す兆候を示し、聖人はそれに従う」という意味だと考えた。その後まもなく、孝荘皇太后は唐若王を釈放する勅令を出した。「唐若王は先帝に信頼され、最大限の敬意をもって扱われた。彼を死刑にするつもりか?」[ 3 ]。こうして唐若王は死刑を免れた。宮廷天文局の官僚である杜如玉と楊洪良は死を免れたが、李祖白と他の4人は斬首された[ 1 ] [ 4 ] (絞首刑だったという説もある[ 5 ] )。1666年8月15日(康熙5年7月15日)、唐若旺は病死した。
康熙帝が親政を敷いた後、彼はこの事件を無罪とすることを決めた。
参考文献
- *清朝史草稿、伝記、第 59 巻、唐若王、楊光賢、南淮仁*
- 王志新『中国キリスト教概史』上海古書出版社、初版、2007年3月、95頁
- 于三楽著『初期の西洋宣教師と北京』150ページ
- 呉継科:清朝初期の天文学における生死をかけた闘い(アーカイブリンク)
- 王新龍。『清朝 3』。 中国戯曲出版社。2013年11月20日:74。ISBN 9787104030461。
外部リンク
- ファン・イノン:
- <康熙帝時代の漢民族官僚の「地獄」に対する認識と、そこから生まれた伝説(アーカイブリンク)>
- 吉日選びをめぐる論争と康熙暦監獄
- 康熙帝時代の中国カトリック文献における「暦地獄」に関する研究
- 清朝初期におけるカトリックとイスラム教の天文学者間の対立
関連エントリ
今のところ1602年以前に如徳亜(=ユダヤ)の用例は見つかっていない。
マテオ・リッチの造語なのか当時から一般に膾炙されていた言葉を採用したのか?]
明朝末の政治家・農学者。上海の人で、イエズス会宜教師マテオ=リッチの著した世界地図、『坤輿万国全図』を見て西欧の学問に憧れ、マテオ=リッチの滞在する南京に赴き、1600年南京でマテオ=リッチにより、キリス卜教の教義を授けられ、1603年には洗礼を受けた。翌年進士に及第して官につく一方マテオ=リッチに西欧諸学を学び、エウクレイデスの幾何学書の前半を漢訳して出版。のち一時官を辞して農学の研究につとめ、中国の農学を集大成しさらに西欧の知識を加え、大作『農政全書』を完成。一方でサツマイモなどの普及につとめる。後金のヌルハチが率いる女真軍の勢力が増大し明軍が劣性になると、砲術を中心とする西洋兵学の導入を進言し、マカオより大砲を購入。大戦果を上げている。崇禎帝の即位により重用され、礼部尚書(文部大臣)になり、アダム=シャールらと西洋暦法を導入した崇禎暦書作成に従事した。
李祖白(-1665年)、中国明朝末から清朝初年までの天文学者、カトリック教徒。
生涯
幼い頃、西洋の宣教師である湯若望に教えられ、欽天監に仕えた。明朝の天啓六年(1626年)、李祖白は湯若望が『遠鏡説』という本を書くのを手伝い、ガリレオが発明した現代望遠鏡の製造方法を中国に紹介した。
清朝順治年間、李祖白と利類思Lodovico Buglioは『天学伝概』を共著し、文章の中で中国文化の西洋説を提起し、楊光先などの激しい反対を招いた。康熙三年、楊光先は書に唐若望を非難し、康熙を投獄させた。康熙4年、当時欽天監歴科主事を務めていた李祖白は、この事件で凌遅の死刑判決を受け、その後孝庄皇太后の斡旋で刑を減刑して絞首刑にし、息子の李実ら五人と一緒に処刑された。[1]
康熙帝が親政した後、康熙8年にこの事件を正し、元の官に恩を抱いた。[1]
参考文献
- 王新龍。大清王朝3.中国演劇出版社。2013-11-20: 74.ISBN 9787104030461。
タイトル中国 : 社会と文化 (6)出版者中国社会文化学会出版年月日1991-06
康熙三年(1664年)
天学伝概
李祖白
なぜそう言えるのか?開闢の時、初人の子孫はユダヤに集住し、東西南北の他には人の住むところなし。当時、一主を事え、一教を奉じ、紛岐する邪説は生じる由なし。その後、人口日増しに繁り、遠く離れて散らばる。大東大西に人の住む始まりは、その時期ほぼ同じであった。
日本の歴史教科書では「アダム・シャール」と表記され、かつては西洋でも Schaal と書かれることも多かった[2]。しかし、Schallのドイツ語での発音は「シャル」が近い。中国名は「湯若望」(拼音: とうじゃくぼう)。]
A
《書》
★曰:「昭受上帝,天其申命用休。」『尚書』虞書・益稷 第五
《このようにされてこそ、天子が行われることに対して、天下の人々も大いに呼応して、天子の御意志を待つことになるでしょう。 その結果、天子は、輝かしい天帝のお恵みを受けられ、天は天命があなたの上にあることを重ねて明らかにされるでしょう》
「心を清らかにして、上帝の意志を受信しなさい」
★曰:「予畏上帝,不敢不正。」『尚書』(別名:『書経』)商書・湯誓 第10
「(夏の桀王には多くの罪がある。)私は天上を統べる最高神(上帝)を敬い畏れている。それゆえ、その命に背いて彼の罪を正さない(討伐に行かない)わけにはいかないのだ。」
★曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」 商書・湯誥 (とうこう)
《大いなる天の上帝は、心の正しさという性質を人々にお与えになった。》角川文庫 書経
★曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」 商書・湯誥 (とうこう)
《上天は、地上の人々を助けて、…その善であるか、罪に当たるかの判断は、上帝の心にあるのです。》
★曰:「顧諟天之明命。」 泰誓上
《あの天帝の明らかな命令を目ではっきりと見て、天地の神に仕えられたのです。》太甲
★曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上帝。」泰誓上
《天は、地上にいる人々を助けようと、私をその君主とし、指導者とされました。さてそこで、私は天帝とともに、(天下四方を統べて安らがせようと思うのです。)》泰誓上
★曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」君奭(くんせき)
《私がこの位に止まっていることをよしとして下さいませ。私とて、敢えて天帝が降される天命に安んじているわけではございません。永く天の威光を念じ、我が王朝の人々が過つことがないようになさらないのですか。…》
B
見之《詩》
★曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」「詩経」大雅・文王篇 第6章
(文王の神霊は天上にあり、あの天に輝きを放っている。[周は古い国ではあるが、国運に新しい気運が現れた。周の前途は実に輝かしく、天の意志は阻むことができない。]文王の神霊は昇り降りし、いかなる時も天帝の傍らにいる。)
★曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。
天鑒在下,有命既集。
上帝臨女,無貳爾心。」詩経・大雅・大明
( 文王は慎み深く細かいことにも気を配り、天の神につかえ人民の幸福を願った。
[その結果、周に多福をもたらした。])
(天は下界をみそなわし 今ぞ天命は下された。)
(上帝女<音汝>に臨めり、爾の心に貳[うたが]い無かれ。)
★曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」大雅 -文王之什 -皇矣
(皇[おお]いなるかな上帝、下を臨[み]ること赫[あき]<叶黑各反>らかなること有り)
★ 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」 詩經 -> 大雅 -> 生民之什
(天の怒りを敬んで、敢えて戲れ豫[やす]んずること無かれ。天の渝[か]<音兪>われるを敬んで、敢えて馳せ驅すること無かれ。)
★曰:「蕩蕩上帝,下民之辟。天生烝民,其命匪諶。」詩経 / 大雅・蕩之什・蕩
(広大な徳を有される天帝は
天下の民に君臨される。
そのはずの天帝が下す命には、
民を苦しめるものがこうも多い。
天は民をお産みになりはしたが、
天命は常に民を守りはしない。
人は、始めこそ慎ましくおるものの、
それを最期まで貫き通せる者は
実に少なきこと。)
★曰:「口我來牟,上帝率育。」《詩經.周頌.執競》:「貽我來牟,帝命率育。」
「口我來牟,上帝率育」 は、かなり近い形で
「貽我來牟,帝命率育」
という『詩経』の句に見えます。(ctext.org)
https://ctext.org/dictionary.pl?if=gb&char=來牟&remap=gb
「來牟」は古注で小麦や大麦を指す語として扱われています。(ctext.org)
「帝命率育」は、天帝の命によって広く養い育てるという意味で解されています。(ctext.org)
✨ 全体の意味
自然な日本語にすると、だいたい次の意味です。
(麦を与えられ、上帝の命によって人々が広く養われる。 )
★曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」閟宫(ひきゅう)
https://www.guwendao.net/mingju/juv_9ddc918fda14.aspx
《赫赫(かがや)かしきは姜嫄、その徳たがうことなければ、 上帝もここに依りたもうて、(周の先祖后稷をみごもらせたもうた)。…
(武王は言った)「ふたごころあるなかれ、虞(はかりごと)するなかれ。上帝汝を見守りたもうゆえに」と。》角川文庫 詩経
C
《魯論》「魯論(ろろん)」は、孔子の言行録『論語』の異本の一つで、現在伝わる『論語』の底本となった系統。
★曰:「獲罪於天,無所禱也。」「論語」八佾第三13
(天に対して罪を犯せば、祈っても無駄ですよ。)
★曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」「論語」雍也第六26
(もし私によくないところがあれば、天の神様は見限るだろう。天の神様は私を見捨てるだろう。)
★曰:「丘之禱久矣。」述而第七34
(もし私によくないところがあれば、天の神様は見限るだろう。天の神様は私を見捨てるだろう。)
★曰:「畏天命。」季氏第十六 8
(天命を畏れ敬う。)
D
《中庸》
★曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」中庸第十九章:武王周公其達孝 中庸19 3:2:2 新釈2:251頁
(郊外で典禮を行うのは天帝を祭ること)
https://blog.udn.com/hgprint/9183556
★曰:「上天之載,無聲無臭,至矣。」詩経(大雅文王篇)中庸33 6:3 新釈2:322頁
(「上天のことは声もなく臭いもない」と言うが、
実に聖王の徳をもって民を化するに、声もなく臭いもなくて、
民は自ら感化することを形容している。至れり尽くせりというべきである。)
E
《孟子》
★曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」梁恵王下 新釈4:50(3)
(天のことわりを楽しむ者は、天下を保ち、天に畏敬の念をいだく者は、国家を保つことができます。)
★曰:「順天者存,逆天者亡。」離婁上 4:248(7)
(天の理法に従う者は存続して栄え、天の理法に反する者は滅びる。)
★曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」卷之八 離婁章句下 中間部 4:301(25)
(どんなに醜い人であっても、斎戒沐浴して心身を清めたならば、上帝(天の神さま)もその人の祀(まつ)りを受け入れてくださるだろう。)
★曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 卷之十三 盡心章句上 177節 冒頭 4:442(1)
(誰もが心の中に持っている理義を極めつくせば、人の本性が本来善であることが分かる。本性が善であることを知れば、それを与えてくれた天をも知ることになる。己の心を常に省みて察し、善なる本性を養うことが天に仕える道である。短命か長命かなどと気に掛ける事無く、ひたすら身を修めることに務めて天寿を待つ、それが立命乃ち天命を守る道なのである。)
A
《書》
★★曰:「昭受上帝,天其申命用休。」『尚書』虞書・益稷 第五
★曰:「予畏上帝,不敢不正。」『尚書』(別名:『書経』)商書・湯誓 第10
★曰:「惟皇上帝,降衷於下民。」 商書・湯誥 (とうこう)
《大いなる天の上帝は、心の正しさという性質を人々にお与えになった。》角川文庫 書経
★曰:「上帝妥佑下民。 :「惟簡在上帝之心。」 商書・湯誥 (とうこう)
★曰:「顧諟天之明命。」 泰誓上
《あの天帝の明らかな命令を目ではっきりと見て、天地の神に仕えられたのです。》太甲
★曰:「天佑下民,作之君,作之師,惟其克相上帝。」泰誓上
《天は、地上にいる人々を助けようと、私をその君主とし、指導者とされました。さてそこで、私は天帝とともに、(天下四方を統べて安らがせようと思うのです。)》泰誓上
★曰:「我亦不敢寧於上帝命,弗永遠念天威。」君奭(くんせき)
《私がこの位に止まっていることをよしとして下さいませ。私とて、敢えて天帝が降される天命に安んじているわけではございません。永く天の威光を念じ、我が王朝の人々が過つことがないようになさらないのですか。…》
B
見之《詩》
★曰:「文王在 上,於昭於天;文王陟降,在帝左右。」「詩経」大雅・文王篇 第6章
★曰:「維此文王翼翼,昭事上帝。天鑒在下,有命既集。上帝臨女,無貳爾心。」詩経・大雅・大明
★曰:「皇矣上帝,臨下有赫。」大雅 -文王之什 -皇矣
★ 「敬天之怒,無敢戲豫;敬天之渝,無敢馳驅。」 詩經 -> 大雅 -> 生民之什
★曰:「蕩蕩上帝,下民之 辟。天生烝民,其命匪諶。」詩経 / 大雅・蕩之什・蕩
★曰:「口我來牟,上帝率育。」《詩經.周頌.執競》:「貽我來牟,帝命率育。」
★曰:「赫赫姜嫄,其 德不同。上帝是依......『無貳無虞,上帝臨女。』」閟宫(ひきゅう)
https://www.guwendao.net/mingju/juv_9ddc918fda14.aspx
《赫赫(かがや)かしきは姜嫄、その徳たがうことなければ、 上帝もここに依りたもうて、(周の先祖后稷をみごもらせたもうた)。…
(武王は言った)「ふたごころあるなかれ、虞(はかりごと)するなかれ。上帝汝を見守りたもうゆえに」と。》角川文庫 詩経
C
《魯論》「魯論(ろろん)」は、孔子の言行録『論語』の異本の一つで、現在伝わる『論語』の底本となった系統。
★曰:「獲罪於天,無所禱也。」「論語」八佾第三13
★曰:「予所否者,天厭之,天厭之。」「論語」雍也第六26
★曰:「丘之禱久矣。」述而第七34
★曰:「畏天命。」季氏第十六 8
D
《中庸》
★曰:「郊社之禮,所以事上帝也。」中庸第十九章:武王周公其達孝
https://blog.udn.com/hgprint/9183556
★曰:「上天之載,無聲無臭,至矣。」詩経(大雅文王篇)33
E
《孟子》
★曰:「樂天者,保天下。畏天者,保其國。」梁恵王下
★曰:「順天者存,逆天者亡。」離婁上
★曰:「雖有惡人,齋戒沐浴,則可以事上帝。」卷之八 離婁章句下 中間部
★曰:「存其心,養其性, 所以事天也。妖壽不貳,修身以俟之,所以立命也。」 卷之十三 盡心章句上 冒頭
《天學傳概》(以下簡稱《傳概》)是中國天主敎傳敎史上的一部名著。康熙二年 ... 今觀《傳概》作者李祖白署名前冠“燕吳後學”四個字,“燕”指的是順天,“吳”即指其 ...
清初中國天主敎名著《天學傳概》
歴史(編纂學)
陳占山

澳門望德敎堂(設色版畫)
I. Wathen delt 繪畫 I. Clark dirext製版 (約1811年)
《天學傳概》(以下簡稱《傳概》)是中國天主敎傳敎史上的一部名著。康熙二年(1663)成書後,立即被作為宣敎要籍,在敎徒中廣為散發;三年楊光先發起排敎案,又將其列為最重要的罪證材料。但敎案中,《傳概》遭禁,書版被燬,後絕少流傳。幸1966年台灣吳相湘先生據羅馬梵蒂岡所藏原本影印,收載於由他主編、台灣學生書局出版的《天主敎東傳文獻續編》第2冊中,筆者所據即此。吳先生之舉,對於加強、擴大《傳概》的流傳起了有益的作用,惟所憾者其編著發行基本局限於台港,別處尚罕觀。這種情形限制了不少學者的徵引,同時也影響了對《傳概》本書的研究。鑒於此,筆者撰文擬進行兩方面的工作: 一、對《傳概》有關問題作簡要評價;二、將《傳概》從吳氏編著中抄出,作必要處理,忝列文後,期一併刊出,方便學人。
先進行第一方面的工作,祗涉及三個問題。
一、關於《傳概》的作者
此問題過去曾產生過嚴重的混亂,有兩種錯誤的説法: 一説作者,或主要作者為利類思和安文思。如主要依據明清間在華傳敎士發回歐洲的書信、文件,由德魏特所撰《湯若望傳》寫道:
1664年,有一本駁斥《辟邪論》的著作出現,題名《天學傳概》。這部著作的主要作者是利類思與安文思二位神甫。奉敎官員約翰·李祖白乃欽天監一監副,給這本著作加了一番修辭潤色之工,而以他的名義付印發行。(1)
費賴之於1875年撰訖的《在華耶穌會士列傳》中,也將此書歸於利類思作(2),可見此説由來已久。值得注意的是桀誤流傳,許多現代學者對此竟已深信不疑。如張力、劉鑒唐先生説:
《天學傳概》一書,本為傳敎士利類思所著,華人李祖白、許之漸僅作序文、弁首而已。(3)
又如樊洪業先生也稱“傳敎士安文思和利類思……寫出《天學傳概》一書”(4)。另一説認為作者是李祖白,但利類思和安文思也相當程度地參與了該書的撰寫。如裴化行在1945年發表的《西書漢譯考》中,雖稱此書為李祖白撰,但其後加括弧書上利類思、安文思二人的名字。(5)這種作法後來為許多有關敎會著譯目錄沿用。
《傳概》的作者是李祖白。凡稍備中國天主敎傳敎史知識者,祇要大概瀏覽一下這部著作,都不難得出這一結論。書首頁於“天學傳概”書名下,即署“燕吳後學李祖白撰”,而原書僅有的一篇序言<許之漸序>也説:
然真李子以余為有契乎其言也,持所著書,屬利子索余序,因述其大略。
其中,“然真”為祖白字,“利子”指利類思,“李子”“持所著書”,是與書前撰者署名一致。又,書內在言及湯若望時,每稱“余師”或“師”。李祖白為湯若望門人,其有此稱,正合情理。可見,此書出於李手,顯而易見。對此,方豪先生以同樣理由早就指出過了。(6)不過,對這一問題的指正如果僅限於此,則未完整。因為上舉事實并不能否認利類思和安之思有可能參與撰寫《傳概》的説法。如力主《傳概》的作者為李祖白的方豪先生,就同時也接受前所舉第二種錯誤説法。(7)值得注意的是台灣清華大學黃一農敎授對此有進一步的推論。他指出:
事實上,由內文〔指《傳概》之中〕稱許湯若望以治曆之功掌理欽天監,并荷順治皇帝“鍚佳名,晉崇階”,且謂南懷仁“以知曆赴闕庭,仰給大官”等敦述,可推知此書與利類思與安文思二人應無太大關係,因安文思等敎士曾於順治五年起,發表一連串文件抨擊湯若望擔任監正一職有違耶穌會“不宦”的誓約,且批評其負責編製含有迷信內容的曆書,以致在敎內掀起一長達十數年的滔然大波,此案直到康熙三年時,始因敎皇的裁決而塵埃落定,而利類思在此一紛爭中的立場則是支持安文思的,故兩人應不太可能讚同書中視湯若望及南懷仁出任監官為揚敎之舉的態度。(8)
此推論可信,可以排除利、安二人參與《傳概》一書撰寫的可能。
導致有關《傳概》作者錯誤説法的原因可能很多,但主要應是本文一開始就指出的事實: 此書後來流傳很少,故大多數論者實未睹原書。
李祖白何人? 毋庸諱言,很長時期此問題在學術界是不很清楚的。包括方豪敎授,除了辨證《傳概》為其所作外,對李祖白其人也沒有再作深入的考證。使李氏的生平事蹟由隱而顯,在學人面前突兀出來,此乃歸功於黃一農敎授的工作。1991年黃先生發表所撰<康熙朝涉及“曆獄”的天主敎中文著述考>(9)一文,有效地挖掘徵引了一些鮮為人知、或被前人忽視的材料,如順治末年所造《御屏京官職名冊》、李銳《觀妙居日記》及李祖白為傳敎士羅雅谷《哀矜行詮》所作序文等,對李氏的事蹟作出了令人信服的考證。茲據之略述於下:
祖白生平不詳,原籍杭州,與被譽為中國天主敎三大柱石的李之藻、楊廷筠二人誼屬同鄉,或受其影響,早在明崇禎初就已“奉敎(……)有年”,後出任天文官遷籍順天府,曾為順天副榜監生。今觀《傳概》作者李祖白署名前冠“燕吳後學”四個字,“燕”指的是順天,“吳”即指其原籍杭州。祖白於明末即在曆局中追隨湯若望學習西法,但一直未獲授職,僅得以“供事生員”掛名其間,順治元年因編製《時憲曆》有功,授欽天監博士,十年六月題補為夏官正。康熙四年四月初四日,因楊光先排敎案與其他四名奉敎監官同遭處斬。據黄先生考證可知,祖白不止為《傳概》的作者,實也是晚明清初西學東漸的積極促進者,是湯若望等改訂、頒行西洋曆法的得力助手。
二、關於《傳概》的撰寫意圖
就筆者所見有關論著,除黄一農先生前揭文外,幾眾口一辭,説《傳概》的撰寫意圖是為駁斥楊光先的《辟邪論》的。如前引《湯若望傳》即是,方豪先生也沿襲此説。筆者發現這種説法同樣由來很久,費賴之前揭書已如是説,而蕭若瑟《天主敎傳行中國考》持論最詳,也最普遍地被後來乃至當今有關中國天主敎史著作所援引,因而最具有代表性。其文曰:
康熙冲齡踐祚,光先揣知輔政大臣螯拜等不喜西士;且鰲拜素性好疑,居心暴戾,同僚多被傾軋。光先以為機會可乘,遂遊説於權貴之門,百方詆譭西士所傳之敎與西洋曆法,作《辟邪論》,譭謗聖敎,刷印五千餘本,散佈各處。利類思神父以謠言繁興,聖敎日晦,作《天學傳概》書,揭明聖敎道理。凡《辟邪論》所載謠言蜚語,逐條辨明。奉敎顯官許之漸、李祖白各作序文弁首,極言聖敎道理之美善。此書印行之後,楊光先見之,如瘋如狂,積恨愈深,又作一書名《不得已》,較《辟邪論》誣枉尤甚。(10)
現可據此作些分析。首先,我們發現引文中有四處明顯的誤説:
其一,《辟邪論》撰於順治十七年,非“康熙冲齡踐祚”之後。
其二,利類思非《傳概》作者,上文已詳。
其三,今見《傳概》祇有許之漸序并無李祖白序。其書本來如此,一定不誤,攻擊最力的楊光先,也一定是此書最早的研讀者。而在其<與許青嶼侍御書>和<請誅邪敎狀>兩文中,從未提到《天學傳概》除許之漸序外,更有李祖白序。
其四,許之漸并不奉敎(其非天主敎徒)。
這四處誤説使我們有理由懷疑蕭若瑟整個説法的可靠性。《天學傳概》首言天主敎基本宗旨,次述其敎的由來及在華的歷史,并援引儒家典籍加以説明,最後是其敎在華現狀。除此而外,并無其它。而蕭氏説“凡《辟邪論》所載謠言蜚語逐條辨明”,與《傳概》內容相去甚遠。又,在《傳概》全文之末,李祖白對其書的撰寫意圖曾有專門交待:
癸卯孟冬,公餘少暇,客有問天學今昔之概者,謹遵所聞論次之,以代口答。
此與其書內容完全相符。又,從這段文字亦可反推《傳概》卷端必無祖白所撰序文,否則,就不會在全書之末才交待其著作的緣起了。因此,以紹介“天學今昔之概”的《傳概》是一部地地道道的宣敎書,而非駁斥異端的護敎類著作。綜觀全文,其針對楊氏及其《辟邪論》并無片言隻語,更不要説“逐條辨明”了。所以,前引蕭書及其它一切敎會史書説《傳概》是為駁斥《辟邪論》而撰,實無任何根據。從這一點又再一次可以説明,大部份有關論者一定是未睹原書而人云亦云。值得進一步思考和應給以高度注意的恰恰是,成書於楊光先《辟邪論》、《拒西集》等激烈抨擊天主敎之書後的《傳概》,對當時頗為轟動的上述揚氏之作,何以無片言隻語的表示呢?
三、《傳概》的影響與學術特點
《傳概》之成為中國天主敎傳敎史上的一部名著,最主要的原因是楊光先把它作為發起康熙三、四年排敎案的罪證材料。由此,在一定程度上,《傳概》的影響可以從這次排敎案前後它所受重視的程度得到説明。
《傳概》撰於康熙二年(1663)十月,許之漸序作於三年正月。同年三月二十五日,楊光先致長信給許之漸,極詆此書,并嚴辭威逼要許撤序。許置之不理。四個月後的七月二十六日,楊向朝廷呈上<請誅邪敎狀>,正式發起排敎案。“控告的狀辭便多半都是以這本著作〔指《傳概》〕為口實,而一切曾與這部著作之撰述及散佈有關的人們,俱遭它的株連。”(11)楊光先認定由李祖白撰寫的《傳概》“主謀者湯若望,求序者利再可,作序者許之漸,傳用者南敦伯、安景明、潘盡孝、許謙”(12)。
據現有文獻記載看,楊光先以《傳概》等發案,最大限度地鼓動和迎合了正慾“率祖制、復舊章”,不滿順治以來開明政策的滿洲權貴和漢族守舊士大夫的仇敎情緒。所以,一方面立案迅速,楊的狀告一上,禮部竟“本日具疏題參”(13),一改中國封建官僚機構辦事拖沓之風;另一方面,審判嚴密,“竟絲毫不苟且地遵守了訟訴上的一切例行手續”(14)。不過,《傳概》對整個這場排敎案的作用和影響似也僅此而已。隨着審訊工作的全面展開,傳敎士的“罪狀”一一被挖掘出來,此書反而演化成一個不怎麼重要的因素。如遭焚書燬版之事,無論是在敎案審訊期間作出的一系列階段性的判決書,還是最後的終判決書中,都不見提及。(15)而被楊光先指為參與此書撰述及發行的一干人犯中,純與之相關的許之漸、潘盡孝、許謙三人,最後所受處罰也僅僅是落官無職而已。不過,湯若望等人於康熙八年八月獲全面平反,但諭旨仍禁止“伊等聚會散給《天學傳概》及銅像等物”(16)。
作為一部傳敎書,《傳概》最大的學術特點是“言辭未免過於膽大”(17),“措辭造意,都不能不説有欠考慮”(18),因而最大限度地衝擊了當時中國傳統文化的認識氛圍,傷害了正統士大夫服膺的道統觀念;同時也表明入清後天主敎“適應儒家”的工作,已進入了一個嶄新的階段。關於前一方面,此不再贅。祇要瀏覽一下楊光先的<與許青嶼待御書>和<請誅邪敎狀>兩文,對此就可以有深切的感受;至於“適應儒家”,這裡略須剖明。簡而言之,適應儒家即是指天主敎徒中的智識份子,為爭取中國民眾,特別是廣大士大夫的皈依、信奉,借用儒家經典中的一些詞匯乃至理論,詮釋天主敎義,以説明天主敎在中國是“古已有之”和“天儒”是“相通”的。這一工作自利瑪竇始,至李祖白時前後已近一百年,其成效十分顯著。李祖白書實為前人(傳敎士和以徐光啟、李之藻、楊廷筠代表的一批中國士大夫)這方面工作的繼續。今閲此書,不到三千言的篇幅,竟引用《尚書》九十五言、《詩經》一百一十言,《論語》二十六言、《中庸》二十言、《孟子》二十九言,真可謂極“適應”之能事了。一位敎中學者據此指出“李祖白也是清初天主敎友中,從事適應儒家運動的一位功臣”(19),應是較中肯的。
值得注意的是李祖白的適應儒家與其前輩比較起來,有一個顯著的不同: “往時利瑪竇引用中夏之聖經賢傳,以文飾其邪敎,今祖白逕謂中夏之聖經賢傳是受邪敎之法語微言。”(20)這不僅在中國天主敎著述史上,即使在整個中國文化史上都是石破天驚的。加之,李祖白又據《舊約·創世紀》推衍出“中國之初人,實如德亞之苗裔”的怪論,所以楊光先以其説是:
盡我大清而如德亞之矣,盡我大清及古先聖帝聖師聖臣而邪敎苗裔之矣,盡我歷代先聖之聖經賢傳而邪敎緒餘之矣,豈止於妄而已哉! 實欲挾大清之人,盡叛大清而從邪敎,是率天下無君無父也! (21)
《天學傳概》應予以珍視,它代表了明清之際從敎士大夫的一種“文化情緒”,有着獨特的學術價值,在中國天主敎傳敎史及整個中國文化史上,都實在是值得認真去研究的。至於這部著作的其他價值,見仁見智,暫可不論。
接下來做第二項工作。筆者所據影印本,正文凡七頁,半頁九行,行二十字。四週單邊,單魚尾。正文前是<許之漸序>,共五頁,半頁六行,行十二字。現對原文分段、句讀;引文核對原著,經書并明篇目;人物字號等,酌出簡注。
《傳概》: <許之漸序>
自天地之心見,而後君師之道興。帝王之所以為治,聖賢之所以為學,未有不本乎天者也。黃軒迄今,世無異治,而教統一裂。人自為學,家自為師,若水火之不相謀,要無不尊天以立說者。一彼一此之間,往往陽擯其名而陰竊其實。雖道家之幽渺,釋子之虛寂,窮其所托,與吾儒之盡性至命,不有殊途而同歸者乎? 惟是斁倫毀紀,舍君臣父子之大而耽夫幽渺虛寂,以別求其所謂天,此二氏之教,吾儒所以辭而辟之也;彼行之不著習矣。不察終其身於君臣父子,而莫識其所為天,即儒者,或不能無弊。如欲循其弊,以為救仍,莫若尊天以立說。
相傳開辟以來,有所為天主教學者。驟而聆其語,若徜
而弗可據。即其於吾儒當告之,以二帝三王之道,日月星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,不應瀆告之,以其學也。久之而親其人,譯其書,以昭事不墮為宗旨,克己愛人為工夫,悔過遷善為入門,生死大事有備無患為究竟。其於二帝三王之道,日月星辰之行,天地之所以著,鬼神之所以幽,物類之所以蕃,江河之所以流,靡弗相始終、相表裡,超出乎二氏之上。而後知其學何,莫非吾儒之學也。
其敎自漢唐流傳中土,明萬曆辛巳,耶穌會士西泰利子,航海九萬里而來。(22)建堂於宣武門內,一時名公巨卿,多樂與之遊。至國朝,恩禮倍渥,通微敎師(23),實總曆務。復敕建東堂,再可利子,景明安子主之,余俱樂與之游。而然真李子以余為有契乎其言也,持所著書,屬利子索余序,因述其大略。惟向者福清葉相國(24)贈西賢詩,有云“言慕中華風,深契吾儒理”,又云“拘儒徒管窺,達觀自一視”,誠化其同異之見,取所為尊天以立說者。究其指歸,精其義蘊,即不言學,并不言敎可也。而一切窮神達化,更有進乎? 此者抑非余之所及知也已。
康熙三年,歲在甲辰,春王正月,柱下史昆陵許之漸敬題。(25)
《傳概》正文
天學,天主敎學也。天主為萬有之初有,其有無元而為萬有元。德福圓滿,知能渾全,妙性超然,奧窮思悟,中土尊稱之日“上帝”。茲以其為天地之主宰,故質稱天主也。而其敎則為人而立,別人於蠢動,脩人於天神,令向真原而求真福。大要以昭事不墮為宗旨,以克己愛人為工夫,以悔過遷善為入門,以生死大事有備無患為究竟。誠吾人最吃緊之實學,而其從來遠矣。
緬昔天主上帝,於厥世始,開闢乾坤,發育萬物,所以資人安居利用者悉備。而生初人,男女各一。其靈性賦以當然之則,好善惡惡,秉為彝常,永不能脫。凡遇忠孝大節,舉仰慕之若渴;凡遇姦頑大
本冊第 87 頁開始
全文於本冊的 頁
歴史(編纂学)
清初中国天主敎名著『天学伝概』
陳占山

マカオ望徳敎堂(設色版画)
I.Wathen delt 絵画 I.Clark dirext製版(約1811年)
『天学伝概』(以下『伝概』という)は、中国の天主敎伝敎史上の名著である。康熙二年(1663年)に成書した後、直ちに宣敎の要籍として、敎徒の間で広く配布された。3年、楊光先は敎事件を提起し、また最も重要な罪証資料に挙げた。しかし、敎事件では、『伝概』が禁止され、本版が破壊され、その後ほとんど流布しなかった。幸い、1966年に台湾の呉相湘氏がローマのバチカンに収蔵されている原本を複写し、彼が編集し、台湾学生書局が出版した『天主敎東伝文献続編』第2巻に収められ、筆者はこれに基づいている。呉氏の行動は、『伝概』の普及を強化し、拡大するのに有益な役割を果たしたが、残念なのは、その編纂と発行は基本的に台湾と香港に限られており、他では珍しい。このような状況は、多くの学者の引用を制限し、同時に『伝概』という本書の研究にも影響を与えた。これを理解して、筆者は文章を書くために二つの方面の作業を行う予定だ:一、『伝概』に関する問題を簡潔に評価する;二、『伝概』を呉氏編著からコピーして、必要な処理として、文章を列挙した後、一期一斉に刊行して、勉強に便利になる。
まず第一方面の仕事を進めて、三つの問題に関わっています。
一、『伝概』の作者について
この問題は過去に深刻な混乱を生んだことがあり、二つの間違った説法があります:一説作者、または主な作者は利類思と安文思です。例えば、主に明清の間に中国伝敎士がヨーロッパに送り返した書簡、文書に基づいて、徳魏特が書いた『湯若望伝』にはこう書かれている:
1664年、『辟邪論』を否定する著作が出現し、『天学伝概』と題した。この著作の主な作者は利類思と安文思の二人の神父です。奉敎官吏のジョン・李祖白は欽天監一監副で、この著作に修辞的な修正を加え、彼の名義で印刷して発行した。(1)
費頼之が1875年に執筆した『在華イエス会士列伝』の中で、この本も利類思作(2)に帰属し、この説は古くからあることがわかります。注目すべきは、多くの現代学者がこれを確信していることです。緊張力、劉鑒唐先生の説のように:
『天学伝概』という本は、伝敎士利類思が書いたもので、中国人の李祖白、許之漸は序文、弁頭だけを書いた。(3)
また、樊洪業さんも「伝敎士安文思と利類思......『天学伝概』という本を書いた」と言った(4)。別の説では、作者は李祖白であるが、利類思と安文思もかなりこの本の執筆に関わっている。例えば、裴化行が1945年に発表した『西書漢訳考』の中で、この本は李祖白が書いたと名乗ったが、その後括弧で利類思、安文思の二人の名前が加わった。(5)このやり方は後に多くの関連敎会の著作翻訳目録に沿用された。
『伝概』の作者は李祖白です。中国の天主敎伝敎史の知識を少し知っている人は、この著作をざっと見て、この結論を出すのは難しいことではありません。本のトップページは「天学伝概」という本名の下にあり、「燕呉後学李祖白撰」と署名され、原書の唯一の序文<許之漸序>も説いている:
然真李子以余為有契乎其言也、持所著書、属利子索余序、因述其大略。
その中で、「然真」は祖白字で、「利子」は利類思を指し、「李子」「持所著書」は書前の作者の署名と一致している。また、本の中で湯若望に言及する時、毎回「余師」または「師」と呼ぶ。李祖白は湯若望門の人であり、この呼び名があり、情理に合致する。この本は李手から出たもので、明らかであることがわかります。これに対して、方豪さんは同じ理由でとっくに指摘した。(6)しかし、この問題に対する指摘はこれに限られれば、完全ではない。上挙事実は利類思と安之思が『伝概』の説法を書く可能性を否定できないからです。力主『伝概』の作者が李祖白の方豪さんであるように、同時に前に挙げた第二の間違った説法を受け入れる。(7)注目すべきは、台湾の清華大学の黄一農敎がこれについてさらに推論したことです。彼は指摘した:
実際、内文〔『伝概』中を指す〕によると、許湯若望は暦を治める功で欽天監を統括し、荷順治皇帝の「鍚佳名、晋崇階」、南懐仁は「知暦で阙庭に行き、大官に仰ぎ与える」などの敦述は、この書と利類思と安文思の二人とあまり関係がないと推測できます。安文思などの敎士が于順治五年から、一連の文書を発表し、湯若望が監正職に就いたことはイエズス会の「宦官」の誓約に違反していると非難し、迷信的な内容を含む暦書を編纂したと批判し、敎内で十数年にわたる大きな波紋を巻き起こした。この事件は康熙三年まで、敎皇の裁定によって決着し、利類思はこの争いの中での立場は安文思を支持しているので、二人は本の中で湯若望と南懐仁の監官就任を揚敎と見なす態度に賛同する可能性は低い。(8)
この推論は信憑性があり、利、安二人が『伝概』という本の執筆に参加した可能性を排除できる。
『伝概』の著者の誤った説法の原因は多いかもしれませんが、主に本文の冒頭で指摘した事実です。この本はその後ほとんど流布されていないので、ほとんどの論者は原作を実際に見ていません。
李祖白は誰?言うまでもなく、長い間、この問題は学術界ではよく知られていない。方豪敎授を含めて、『伝概』が彼のためにやったことを判証する以外に、李祖白其人に対してこれ以上の深い検証をしなかった。李氏の生涯の事績が隠されて現れ、学者の前で突如として現れたのは、黄一農が教えた仕事のおかげです。1991年、黄氏は「康熙朝の「暦獄」に関する天主敎中国語著作考」(9)という文章を発表し、順治末年に作った『御屏京官職名簿』、李鋭『観妙居日記』、李祖白為伝敎士羅雅谷など、あまり知られていない、または先人に無視された資料を効果的に発掘して引用した。『哀矜行詮』の序文などは、李氏の事績について説得力のある検証を行った。以下に略記します:
祖白の生い立ちは不明で、出身地は杭州で、中国の天主敎の三大柱石と称される李之藻、楊廷筠の二人は同郷の友情で、その影響を受けて、早くも明崇祯初に「奉敎(......)有年」、後に天文官に就任して順天府に移籍し、順天副榜監生だった。今観『伝概』の作者李祖白の署名前冠「燕呉後学」の四文字、「燕」は順天を指し、「呉」は原籍の杭州を指す。祖白は明末に暦局で湯若望に従って西法を学んだが、ずっと授職されず、「供事生員」と名乗っただけだった。順治元年に『時憲暦』を編纂した功績により、欽天監博士を授けられ、十年六月に夏官正と補った。康熙四年四月初四日、楊光先排敎事件で他の四人の奉敎監官と一緒に斬首された。黄さんの検証によると、祖白は『伝概』の作者であるだけでなく、実は晩明清初西学東漸の積極的な推進者でもあり、湯若望らの西洋暦法の改訂、公布の有力な助手である。
二、『伝概』の執筆意図について
筆者が見た関連論著について、黄一農氏の前暴露文を除いて、数人の口論で、『伝概』の執筆意図は楊光先の『辟邪論』に反論するためだと論じた。先に『湯若望伝』を引用したように、方豪さんもこの説を踏襲した。筆者は、この説法も古くからあることを発見し、費頼は以前、本を公開し、すでにこのように説き、蕭若瑟の『天主敎伝行中国考』は最も詳細で、最も広く、後、さらには現在の中国天主敎史に関する著作に引用され、最も代表的なものです。その文曰く:
康熙は年齢を踏襲し、輔政大臣の螯拝などが西士を好まないことを先見知り、鳌拜は素性が疑心暗鬼で、怒り狂い、同僚の多くは非難された。光先はチャンスが乗れると考え、権力者の門を遊説し、西士が伝えた敎と西洋暦法を百方から誹謗し、『辟邪論』を作、聖敎を誹謗し、五千冊余りを刷印し、各地に散らした。利類思神父は噂が盛んになり、聖敎日が不明瞭で、『天学伝概』の本を作り、聖敎の道理を明らかにした。『辟邪論』に載っているうわさや噂は、一つ一つ識別する。奉敎顕官許之漸、李祖白はそれぞれ序文弁首として、極言聖敎道理の美善。この本が出版された後、楊光はそれを先見し、狂ったように狂って、憎しみが深まり、また『やむを得ず』という本のタイトルを作ったが、『辟邪論』よりは、特に冤罪だった。(10)
これに基づいて分析することができます。まず、引用文に明らかな誤説が四つあることがわかりました:
その一つ、『辟邪論』は順治十七年に書かれたもので、「康熙冲齢践祚」の後ではない。
二つ目は、利類思非『伝概』の作者で、上記は詳しく述べた。
第三に、今『伝概』の祇有許の漸序は李祖白序がない。その本はもともとそうで、絶対に間違いない。最も攻撃力のある楊光先も、この本の最初の研究読者であるに違いない。しかし、その<許青嶼侍御書>と<請誅邪敎状>の2つの文章の中で、『天学伝概』は許之漸序以外に、李祖白序が言及したことがない。
その四、許之漸は敎(その非天主敎徒)を奉らない。
この四つの誤説は、蕭若瑟の説法全体の信頼性を疑う理由がある。「天学伝概」は最初に天主敎の基本的な趣旨を述べ、次にその敎の由来と中国における歴史を述べ、儒家の典籍を引用して説明し、最後にその敎の中国における現状を述べた。これ以外に、他に何もない。蕭氏は「『辟邪論』に載っている噂を一つ一つ識別する」と説いたが、『伝概』の内容とはかけ離れている。また、『伝概』の全文の最後に、李祖白はその本の執筆意図について特別に述べた:
癸卯孟冬、公余少暇、客有問天学今昔の概要者、謹守所聞論次之、代口答。
これはその本の内容と完全に一致している。また、この文章から『伝概』の巻末には祖白が書いた序文がないに違いないと推測できます。そうでなければ、全書の最後に彼の著作の縁を告白することはありません。したがって、「天学今昔の概要」を紹介する『伝概』は、異端を反駁する護敎類の著作ではなく、地道な宣敎書である。全文を総合的に見ると、楊氏とその『辟邪論』に対しては一言も言わず、ましてや「逐条識別」を説く。だから、前引用蕭書及びその他すべての敎会史書説『伝概』は『辟邪論』に反論するために書かれたもので、実に何の根拠もない。この点からもう一度説明できるのは、ほとんどの関係者は原書を見たことがなく、人云亦云であるに違いないということです。さらに考え、高度に注意を払う価値があるのは、楊光先の『辟邪論』、『拒西集』など天主敎の書を激しく非難した後の『伝概』が、当時かなりセンセーションを巻き起こした上記の揚氏の作品に対して、なぜ一言も言わずに表現するのか?
三、『伝概』の影響と学術的特徴
『伝概』は中国天主敎伝敎史上の名著になったが、主な理由は楊光先がそれを康熙三、四年排敎事件を起こした罪の証拠資料として利用したからだ。このことから、ある程度、『伝概』の影響は今回の排敎案前後の重視度から説明できる。
『伝概』は康熙二年(1663)十月に書かれ、許之漸序は三年正月に書かれた。同年3月25日、楊光先は許之漸に長書を送り、この書を酷く非難し、厳辞威強に許に辞退却させた。許置之は無視する。四ヶ月後の七月二十六日、楊は朝廷に<誅邪敎状を請う>を提出し、正式に敎案を発動した。「告発の状辞典の多くはこの著作〔『伝概』を指す〕を口実とし、この著作の執筆と拡散に関係したすべての人々は、その株連に遭った。」(11)楊光先は李祖白が書いた『伝概』を「主謀者湯若望、序を求める者利再可、作序者許之漸、伝用者南敦伯、安景明、潘尽孝、許謙」(12)と認定した。
既存の文献記録によると、楊光はまず『伝概』などで事件を起こし、「率祖制、復旧章」を最大限に煽り、迎合し、順治以来の開明政策の満州権力者と漢族の旧士大夫を守る恨み感情に不満を抱いた。だから、一方では立件が迅速で、楊の訴えが上ると、礼部はなんと「今日有疏題参」(13)、中国の封建官僚機構の事務処理の先延ばしの風を一変した。他方では、裁判が厳格で、「訴訟上のすべてのルーチン手順を少しも守った」(14)。しかし、『伝概』は今回の事件全体に対する役割と影響はこれだけです。尋問作業の全面展開に伴い、伝敎士の「罪状」が一つ一つ発掘され、この本は逆にあまり重要ではない要素に進化した。焼書毀版事件は、敎事件の審問期間に下された一連の段階的な判決書であれ、最後の最終判決書であれ、言及されていません。(15)楊光先は、この本の執筆と発行に関わった一派の人犯の中で、純粋に関係のある許之漸、潘尽孝、許謙の三人で、最後に受けた処罰もただ落官無職に過ぎなかった。しかし、湯若望らは康熙8年8月に全面的に正されたが、勅旨は依然として「伊などの集まりが『天学伝概』や銅像などに散らばれる」ことを禁じている(16)。
伝敎書として、『伝概』の最大の学術的特徴は「言辞は大胆すぎる」(17)、「言い回しは意味を醸し、考慮不足を言わずにはできない」(18)、当時の中国伝統文化の認識の雰囲気に最大限に衝撃を与え、正統な士大夫が納得した道統観念を傷つけた;同時に表明から清に入った後、天主敎の「儒教に適応する」という仕事は、すでに新しい段階に入った。前の面については、これ以上余計なことは言わない。楊光先の<許青嶼と御書を待つ>と<邪を誅して敎状を請う>の2つの文章を見て、これについて深く感じることができます。「儒家に適応する」については、ここで少し説明する必要があります。簡単に言えば、儒教に適応することは、天主敎徒の中の知恵のある部分を指し、中国の民衆、特に大多数の士大夫の帰依、信奉を勝ち取るために、儒家経典の中のいくつかの語彙、さらには理論を借りて、天主敎義を解釈し、天主敎が中国で「古有有之」と「天儒」が「相通」であることを説明する。この仕事はリマドゥから始まり、李祖白の頃まで100年近くが経ち、その成果は非常に顕著です。李祖白書実は先人(伝敎士と徐光啓、李之藻、楊廷筠を代表とする一団の中国士大夫)という方面の仕事の継続です。今この本を読んで、三千語にも満たない篇幅で、『尚書』九十五言、『詩経』百十言、『論語』二十六言、『中庸』二十言、『孟子』二十九言を引用して、本当に「適応」できると言える。ある敎中学者はこれに基づいて「李祖白も清初天主敎友の中で、儒教運動に適応した功臣である」(19)と指摘し、比較的的確であるべきだ。
注目すべきは、李祖白の儒教への適応と前任者と比べると、顕著な違いがあることです。「昔、リマドウは中夏の聖書の賢伝を引用し、文でその邪悪を飾ったが、今祖白は中夏の聖書賢伝は邪悪のフランス語の微言を受けたと言った。」(20)これは中国の天主の著作史だけでなく、中国文化史全体でも石破天驚である。加えて、李祖白はまた『旧約・創世記』に基づいて「中国の初めの人、実に徳亜のミャオ系のようだ」という怪論を推演したので、楊光先は次のように説いた。
我が大清を尽くして徳亜のように、我が大清及び古先聖帝聖師聖臣を邪悪に敎苗裔を尽くし、我が歴代の先聖の聖書賢伝を如くして邪を敎緒余を尽くし、妄にとどまらないわけがない!大清を挟もうとする者は、大清に反逆して邪悪に従う、天下を無君無父も率いる!(21)
『天学伝概』は大切にすべきであり、明清の頃から士大夫から「文化感情」を代表し、独特の学術的価値があり、中国の天主敎伝敎史及び中国文化史全体において、真剣に研究する価値がある。この著作の他の価値については、人それぞれで、しばらくは気にしない。
次は二番目の仕事をします。筆者がコピーした本、本文は7ページ、半ページ9行、行目は20字です。四周片側、単魚尾。本文の前には<許之漸序>があり、全部で五ページ、半ページ六行、行十二字です。原文を段、句読みに分け、引用文は原作を照合し、経書は編目も明記し、人物の字号など、簡注を酌量します。
『伝概』: <許之漸序>
天地の心から見て、後君師の道興。帝王が治める理由、聖賢が学問する理由は、天に本乎しない者はいない。黄軒は今まで、世に異治はなく、教は統一して裂けた。人は自ら学び、家は自ら師となり、もし水と火が共謀しなければ、天を敬わない者はいない。あれこれの間に、よく陽はその名を搸し、陰で事実を盗む。道家の幽渺、釈子の虚寂、貧しくその所頼、我儒の尽性至命と、道が分かれて帰る者はいないか?ただ斁倫が紀を滅ぼし、君臣父子の大を惜しみ、夫の幽渺虚寂を耽らせ、そのいわゆる天を求めず、この二氏の教、吾儒は辞して辟之也;彼行之不着習矣。君臣父子に身を察知せず、天を知らず、儒者であり、欠点がないわけにはいかない。もしその弊害を追おうとするなら、まだ救うと思って、天を尊ぶなら立言するな。
開辟以来、カトリックの学者だったと伝えられている。突然その話を聞いて、まるで彷徜
そしてフォコは根拠。すなわち、吾儒に告ぐべき、二帝三王の道、日月星辰の行、天地が着く理由、鬼神が幽か、物類が繁る理由、川が流れる理由、それを冒涜すべきではなく、その学問も。久之而其人親、其書を翻訳し、昭事不堕を宗旨とし、己の恋人を克を工夫とし、悔い改め、善を移すことを入門とし、生死の大事には備え、危険がないことを究極である。二帝三王の道、日月星辰の行、天地が着る理由、鬼神が幽か、物類が繁る理由、河川が流れる理由、靡弗相始終、相表里、二氏を超えている。後になってその学問を知ったのは、我が儒教の学問ではないか。
その敎は漢唐から中土に伝わり、明万暦辛巳、イエズス会士西泰利子、航海九万里から来た。(22)建堂は宣武門内にあり、一時は公巨卿と名付けられ、多楽は彼と遊んだ。国朝に至って、恩礼倍渥、通微敎師(23)、実総歴務。復勅は東堂を建て、再び利子を可し、景明安子主之、余皆楽と遊。しかし、真李子は余を契り、その言にも従え、所著書を持ち、利子索余序に属し、その大略を述べる。唯向者福清葉相国(24)は西賢詩を贈った。「中華風を慕い、吾儒理を深く理解する」という雲があり、また「儒徒を拘って覗き、達観自一視」という雲があり、その同異の意見を誠化し、天を尊んで立説する者である。究其指归、精其義蕴、即ち言わず学、言わず敎可也。そして、すべての貧神達化は、さらに進歩する?この人は余の及ばない。
康熙三年、歳は甲辰、春王正月、柱下史昆陵許之漸敬題。(25)
『伝概』本文
天学、天主敎学も。天主は万有の初めであり、その有無元は万有元である。徳福円満、知性全、妙性超然、奥貧思悟、中土尊称の日「神」。これを天地の主宰者とし、天主とも称する。その敎は人のために立ち、他人は蠢き、人を天神に脩り、真原に向かって真福を求める。大要は昭事不堕を宗旨とし、己と恋人を克を工夫とし、悔い改め、善を移すことを入門とし、生死大事に備え、危険がないことを究極とする。誠我人は実学を一番厳しく食べるが、その昔から遠い。
ミャンマーの昔、天主神は、厥世から、天地を開拓し、万物を発達させたので、資人安住利用者は備えている。生まれて初めての人は、男女それぞれです。その霊性は当然の則を授け、善悪悪、常を貫き、決して抜け出せない。忠孝の大節に出会ったら、憧れを渇望する。姦淫に出会ったら、頑強に
総特集*平田篤胤 異貌の平田篤胤 近世神話・異端神道・ファシズム 斎藤英喜
一方、篤胤は『古事記』だけでは不充分と考え、『日本書紀』『出雲国風土記』『延喜式祝詞』『古語拾遺』などの複数の古代テキストから、正しい「古史」と認定する部分をセレクトして、『古史成文』という独自なテキストを再編集した。そして自ら編集・作成した古史のテキストを注釈したのが『古史伝』であった。 古典テキストの選択基準、それぞれの評価を記したのが『古史徴』である。そこには実証的、客観的な記述もあるのだか、どれが正しい神話か、どこを削り、どう繋いでいけば、正しい「古史」(神話)になるか迷ったときは、筆を置いて神に祈った。すると神からの啓示があった。そんなときは、「おぼえず阿波礼」と手を打ち、舞を舞ったと記している*21。篤胤の古史・古伝を作成する作業は、いわばシャーマニックな行為にも通じていたようだ*22。
*21 「人の大凡に思へる事に、いと解がたき事も多く出来て、此を解得ざれば、此にも彼にもうち合ざる事もあり、また此神は此処に生坐べき謂なし、また彼神と此神は同神ならでは事実に符はすなど、苦しき瀬になりては、筆をおき神に祈言して案へもしつるに、忽然に悟り得たる事も数数あり。然る時は、おぼえず阿波礼とうち出られて、手を拍ち立舞つる事さへぞ有き。」(『古史徴』新修全集5)
*22 斎藤英喜『異貌の古事記』(青土社、二〇一四年)第二章
しかし、このエピソードからは、篤胤の古史・古伝の研究のなかに、じつは宮地厳夫が言った「霊的生活の無限の向進」へと展開していく要素も見えてくる。古史・古伝の研究と「大がかりの霊の御実修」とは、単純に二分できない内実をもっていたのではないか。篤胤の学問の特質をそのように理解しておこう。 ところで、近年の研究によれば、本居宣長の『古事記伝』もまた、けっして近代的な文献学的手法とはいえないことに、注目が集まっている*23。 宣長は『古事記』の一語、一句にこだわって厳密な注釈を施した。それが『古事記伝』全四四巻である。そこで宣長は『古事記』の冒頭に登場するタカミムスヒ、カムムスヒという始原の神を「産霊」という生成の霊力の神格化と注釈する。その「産霊」の語句解釈は、現代の『古事記』研究でも認められている。しかし宣長は、それだけでは終わらなかった。タカミムスヒ、カムムスヒは天地創世以前の「虚空」に顕現し、この「産巣日大御神」の「産霊」=生成の霊力が、天地万物を生み出したと説いていくのである*24。 あきらかに、この注釈は、『古事記』本文からの逸脱だ。神々の顕現は、あくまでも「天地初発の時」とするのが『古事記』本文であった。だが宣長はタカミムスヒ・カムムスヒの「産霊」=生成の霊力が、天地万物を生み出したと主張していく。タカミムスヒ、カムムスヒを天地創造神とするのだ。
*23 東より子『宣長神学の構造』(ぺりかん社、一九九九年)、神野志隆光『古事記と日本書紀』(講談社現代新書、一九九九年)など。
*24 「さて世間に有とあることは、此天地を始めて、万の物も事業も悉に皆、此二柱の産巣日大御神の産霊に資て成出るものなり(中略)されば世に神はしも多に坐ども、此神は殊に尊く坐々て、産霊の御徳申すも更なれば、有が中にも仰ぎ奉るべく、崇き奉るべき神になむ坐ける。」(本居宣長『古事記伝』三之巻 本居宣長全集9)
一般に、日本の神信仰は汎神論的で、唯一神、超越的な創造神は少ないとされる。ところが、そうした列島の神祇信仰の風土に抗するように、唯一神、創造神の神学を創出したのが、中世の伊勢神道、吉田神道などの神道家たちであった*25。彼らもまた、『日本書紀』の注釈を通して、天地創成以前の「機前」のサギリノミコト(度会家行)や「虚無大元尊神」(吉田兼倶)という最高神を見出していく。近年の研究では、これを「中世日本紀」、あるいは「中世神話」と呼ぶ*26。したがって宣長が『古事記』注釈を通して、あらたな「産巣日大御神」の神話を創造したことは、中世神話に倣っていえば「近世神話」の創出といえるだろう*27。こうした視点に立ったとき、平田篤胤とは、宣長の「近世神話」を継承し、さらに展開させたと見ることができる。
*25 小川豊生「中世神学と日本紀 ―― 一三~一四世紀における至高の神と霊魂の探究」(山下久夫・斎藤英喜編『日本書紀一三〇〇年史を問う』思文閣出版、二〇二〇年)を参照。
*26 山本ひろ子『中世神話』(岩波新書、一九九九年)、伊藤聡『中世天照太神信仰の研究』(法蔵館、二〇一一年)、原克昭『中世日本紀論考』(法蔵館、二〇一二年)、小川豊生『中世日本の神話・文字・身体』(森話社、二〇一四年、 阿部泰郎『中世日本の王権神話』(名古屋大学出版会、二〇二〇年)を参照。 *27 「近世神話」については、山下、前掲書(*3)、斎藤英喜、前掲書(*22)、同『古事記はいかに読まれてきたか』(吉川弘文館、二〇一二年)などを参照。
そう、多くの読者は気付くだろう。篤胤の「天之御中主神」の神話にあるのは、キリスト教の創造主宰神の教えであった。引用した『本教外篇』とは、篤胤が密かに天主教(キリスト教)を学んだときの非公開のノートである*28。ここからは、鎖国政策下でキリスト教関係の書籍は「禁書」という一般的な認識は、変更しなければならない。篤胤はもちろん、宣長もまた、中国経由で入ってくる漢訳された『聖書』を密かに読んでいたのだ*29。
*28 宣教師リッチの『畸人十編』、耶蘇会師アレニの『三山論学紀』、耶蘇会師バントーハの『七克』などの引用、抄録、直訳によって構成されている。村岡典嗣「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」(初出一九二〇年・『新編 日本思想史研究』平凡社、二〇〇四年)、海老澤有道『南蛮学統の研究』(創文館、一九五八年)、三木正太郎『平田篤胤の研究』(神道史学会、一九六九年)を参照。
*29 宣長の蔵書目録(全集20)には、明末清初期にキリスト教を布教したゼスイット宣教師の世界地誌の概説書『職方外記』、キリスト教の教義、デウスの神観念を説く利瑪竇の『天主実践』、キリスト教神学と天文学とが一体となった『天経或問』などがあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B8%E4%BA%BA%E5%8D%81%E7%AF%87
『畸人十篇』(きじんじっぺん、きじんじゅっぺん、拼音: Jī rén shí piān)は、明代中国のイエズス会宣教師、マテオ・リッチ(利瑪竇)の著作。『天主実義』の姉妹編的な著作[1]。1608年(万暦36年)初刻[2]。
内容
「畸人」(奇人)すなわちマテオ・リッチと[5]、士大夫各人(徐光啓・李之藻・李戴(中国語版)ら)との対話形式で[6][7]、西洋の死生観や来世について論じる[8][9]。全2巻10篇[10]。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/13919/p157.pdf
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/25109/p143.pdf
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_search/?reqCode=fromsrch&lang=0&amode=2&smode=1&disp_exp=20&kywd1_exp=%E6%9F%B4%E7%94%B0%2C+%E7%AF%A4&con1_exp=alkey
「畸人」という語は『荘子』大宗師篇に由来する[11]。「奇妙な外国人」[12]と同時に「『荘子』のように死生観を語る人」を含意する[11]。
聖書・アウグスティヌス・中国古典・イソップ寓話(狐と獅子など)を引用している[13]。『天主実義』と重複する内容もある[14]。
序跋が李之藻・周炳謨(中国語版)・王家植(中国語版)らに著されている[15]。本書の附録に『西琴曲意』がある[16][17]。
成立・影響
1608年(万暦36年)初刻[2]。リッチの長年の対話録として作られた[18][7]。リッチの『報告書』では『パラドックス集』(イタリア語: Paradossi)と呼ばれ、本書の影響で改宗した中国人もいたと報告されている[19]。
度々重刻され、『天学初函』にも収録された[15]。『四庫提要』には存目として載っている[20]。 典礼論争による禁教を挟んで、清末の1847年(道光27年)に再び重刻された[21]。
李氏朝鮮でも読まれた[22]。日本では、キリシタンの禁書に指定されながらも荻生徂徠や水野軍記に読まれた[23][24]。
平田篤胤は『畸人十篇』や『天主実義』、アレーニ『三山論学記』、パントーハ『七克』などを読み、1806年(文化3年)これらを神道的に翻案した『本教外篇』を著した[3][25][26]。
日本語訳
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
- 柴田篤「『畸人十篇』の研究 : 第一篇・第二篇訳注」『哲學年報』第68号、九州大学大学院人文科学研究院、2009年。 NAID 120001164487。
- 柴田篤「『畸人十篇』の研究(二) : 第三篇・第四篇訳注稿」『哲學年報』第71号、九州大学大学院人文科学研究院、2012年。 NAID 40019237628。
参考文献
- 石井道子「シュタインヘーヴェル版イソップ寓話集の利瑪竇『畸人十篇』に与えた影響」『環日本海研究年報』第27号、新潟大学現代社会文化研究科環日本海研究室、2022年。CRID 1050291768768626432
- 後藤基巳『天主実義』明徳出版社〈中国古典新書〉、1971年。ISBN 978-4896192520。
- 柴田篤「『畸人十篇』研究序説」『哲學年報』第65号、九州大学大学院人文科学研究院、2006年。 NAID 110006263667。
- 柴田篤 著「明末天主教と死生観――中西対話の底に流るるもの」、川原秀城 編『西学東漸と東アジア』岩波書店、2015a年。ISBN 978-4000610186。
- 柴田篤「『天学初函大意書』における『畸人十篇』」『哲學年報』第74号、九州大学大学院人文科学研究院、2015b年。 NAID 120005613543。
- 平川祐弘『マッテオ・リッチ伝 2』平凡社〈東洋文庫〉、1997年。ISBN 978-4582806243。
脚注
- 柴田 2006, p. 35.
- 柴田 2009, p. 157.
- 柴田 2006, p. 36.
- 平川 1997, p. 239.
- 平川 1997, p. 244ff.
- 柴田 2006, p. 38-40.
- 後藤 1971, p. 19-22.
- 柴田 2006, p. 41f.
- 柴田 2015a, p. 116.
- 柴田 2006, p. 38.
- 柴田 2006, p. 42f.
- 平川 1997, p. 244f.
- 石井 2022, p. 24.
- 柴田 2006, p. 44.
- 柴田 2006, p. 45-49.
- 柴田 2006, p. 48.
- 平川 1997, p. 263.
- 柴田 2006, p. 38-40;44.
- 平川 1997, p. 240-242.
- 柴田 2006, p. 52f.
- 柴田 2006, p. 49.
- 柴田 2006, p. 53.
- 柴田 2006, p. 55f.
- 柴田 2015b.
- 平川 1997, p. 265f;276.
- 野口武彦、平凡社、改訂新版 世界大百科事典『本教外篇』 - コトバンク
皆様は明・未・清初の「西学中源」説をご存知であり、清初の教職者がかつて中国人種西説を宣伝したことがあります。
如《道学家传》“小引”云: 盖上古之时,非无书史可考。然经秦火之后,古儒真传道统,竟多失落。故《鉴》、《史》之所载天地人三氏等以至伏羲,中华典籍,皆无确据可稽。是以究诸西史,幸神师指示,古经尚存,一一详具其内。果见东海西海,同一无二,原同一脉。……未有天地之先,昊天之主宰,无声无臭,于穆不已,以其全能,命阴阳二气、火气水土四元行,开辟乾坤,造成万汇。乃将土化为人祖,男则名曰亚当,女则名厄袜,配为夫妇,以传人类。父子公孙,代代相继,传至第十三代子孙,名号伏羲者,乃始入中华,为首御之君,画地始有民居。从兹至今,朝代年纪,一一可考,于西历参对,符合无差。( 阮元《畴人传》卷三五)
『道学家伝』の「小引」によれば、古代においては、書史がないわけではありません。しかし、秦の火を経て、古儒が道統を真に伝えたにもかかわらず、意外にも多くの失望が募った。したがって『鑑』や『史』に記されている天地人三氏等から伏羲に至るまで、中華の典籍はすべて確かな証拠がなく、検証できません。したがって、西史を究め、幸いにも神師の指示により、古経はまだ残っており、一つ一つ詳しくその中に記されています。東海と西海を見ると、同一無二で、原は同一の血脈である。......天地の先は未だ存在せず、昊天の主宰は、音も匂いもなく、穆に絶えず、その全能により、陰陽の二気と火の気・水土の四元を命じ、乾坤を開き、万の会をもたらす。土を祖先に変え、男性はアダムと、女性はエ・ソウと名し、夫婦として組み、人類に伝える。父子と公孫が代々受け継がれ、十三代の子孫へと伝わり、名号は伏羲である。彼は初めて中華に入り、首領の君となり、画地に民家が建立された。ここから現在に至るまで、王朝の年代は一つひとつ検証でき、西暦と参照すれば、全く差がありません。阮元『畴人伝』第3巻5巻)

李祖白的《天学传概》也有类似说法,而论述较为详细。其略云: 天主上帝开辟乾坤,生初人,男女各一。初人子孙聚居如德亚(引者按:今译为“犹太”),此外东西南北并无人居。当是共事一主,奉一教,纷歧邪说无自而生。其后生齿日繁,散走四遐逖,而大东大西有人之始,其时略同。考之史册,推以历年,在中国为伏羲氏。既非伏羲,亦必先伏羲不远,为中国有人之始。此中国之初人实如德亚之苗裔,自西徂东,天学固其所怀来也。生长子孙,家传户习,此时此学之在中夏,必倍昌明于今之世矣。延至唐虞,下讫三代,君臣告诫于朝,圣贤垂训于后,往往呼天称帝相警励。夫有所受之也,岂偶然哉?
其见之于《书》曰:“昭受上帝”,“夫其申命用休”;《诗》曰:“文王在上,于昭于天”;《鲁论》曰:“获罪于天,无所祷也”;《中庸》曰:“郊社之礼,所以事上帝也”;《孟子》曰:“乐天者,保天下”。凡此诸文,何莫非天学之微言法语乎?审是,则中国之教,无先天学者。(杨光先《不得已》)
李祖白の『天学伝概』にも同様の記述があり、論述は比較的詳細です。その略は次のように述べています:天主なる神は天地を開き、生まれたばかりの人は男女それぞれ一人です。初期の人々の子孫は如徳亜デアのように居住しており(引用者注:現在は「猶太ユダヤ」と訳されている)、さらに東西南北には誰も住んでいない。一つの主と共に仕え、一つの教えを奉るとき、様々な異なる邪説は自然に生じません。その後、日々歯が繁茂し、四方に散り、遠くまで走り回り、東と西に人がいた始まりは、その時期とほぼ同じであった。史冊を検証すると、歴年を推すと、中国では伏羲氏である。伏羲ではなく、伏羲が先に伏羲から遠くないことは、中国における人の始まりである。この中国の初期の人々は、まさに徳亜の子孫のようであり、西から東へ、天の学びは彼が抱くものに忠実である。子孫が成長し、家々が学び継がれ、この時この学問は中夏にあり、必ずやこの世で倍に繁栄し、明晰である。唐虞まで延び、三代にわたり、君臣は朝廷に諫め、聖賢は後に教えを垂れ、しばしば天に呼び皇帝と称し、警励を交わす。何かを受け取るのは偶然でしょうか?
書に記すと「昭は上帝を受け、」とあり、「その申命は休むべきである」とある。「詩」には「文王は上にあり、昭は天にある」とあり、「魯論」には「天で罪を得れば、祈るものはない」とある。「中庸」には「郊社の礼は、上帝に仕える」とある。「孟子」には「楽天者は天下を守る」とある。これらすべての文は、天学の微言法に他ならないのでしょうか?審是であれば、中国の教えには先天的な学者はいません。ヤン・グァンシエン『やむを得ず』)
李祖白(-1665年)は、中国の明代末期から清朝初期にかけての天文学者で、カトリック教徒です。
この中国文明について西洋では、中国人がユダヤ人の子孫であると直接主張する証拠は全くなく、明らかに中国の宗教関係者の創論ではなく、来華したイエズス会士の大胆な仮説である。それは「西学中源」説と同様に、利玛窦らが中国経典にカトリックを附し、李之藻や徐光啓らの「東海西海、心は同理は同」といった思想に基づいて発展したものであるが、両者の結論はまさに正反対である。
「西学中源」の説と比べて、この中国文明は西洋にとって、より牽強で、独断的かつ大胆です。それは「史冊に記し、歴年を推す」という一句だけで、伏羲が天主の第十三代子孫であり、中国人はユダヤ人の血統であると断定し、さらには中国の上古の君臣が諭し、聖賢が垂訓したすべてがカトリックの「天学」に過ぎないと断言した。これらの結論は実に世間を驚愕させるほどである。華夏を世界の中心とし、文明の所在である中国の士人にとって、これはまさに侮辱であり、容認できません。

















0 件のコメント:
コメントを投稿