2025年4月11日金曜日

鬼 敦賀とユダヤの物語|ぽーるそん  蘇民将来

敦賀とユダヤの物語|ぽーるそん

 

許黄玉


https://vt.tiktok.com/ZSQbSGnuv/


https://x.com/fukuko2025/status/2066882939917648279?s=61

製鉄技術はインド由来かも

https://rekishi-love-history.blogspot.com/2025/04/blog-post_11.html @

https://www.blogger.com/blog/post/edit/756445346920566665/686183802606045975?hl=ja


https://x.com/japanquestjp/status/2066639583895535822?s=61


「敦賀」という地名は、人の名前から来ている。


ツヌガアラシト——額に角があったと伝わる、大加羅国の王子。


彼が敦賀に館を構えた跡地に、今も角鹿神社が残る。


気比神宮の境内、表参道のすぐそばだ。


参拝の順序には、古くからの決まりがある。


まず角鹿神社に詣でてから、気比神宮の本殿へ向かう。


渡来の王子が、地元の神を出迎える門番として、今も立ち続けている。


気比神宮の主祭神・伊奢沙別命は、「鉄」を意味する名を持つとされる。


ツヌガアラシトもアメノヒボコも、製鉄技術を携えてこの地にやってきた渡来の王子だった。


別々の神話として語られる二人が、実は同じ記憶の異なる顔だったのかもしれない。


そしてその後、気比神宮で「名前を交換した」という神話を持つ神功皇后と応神天皇が現れる。


渡来の王子、越の神、ヤマトの皇統——

この三つが、一つの神社の中で重なっている。


地名は、忘れられた歴史の最後の証人だ。

誰かが、意図的に忘れさせたのか。

それとも、ただ忘れ去られただけなのか。(写真はJR敦賀駅前のツヌガアラシト像、「人文研究見聞録」さんより)


加羅国AI回答

「加羅国(からこく)」は、朝鮮半島南部の古代国家群「加羅(伽耶)諸国の一つ、またはそれらの総称であり、洛東江流域を中心に1~6世紀頃に栄え、新羅に併合されて消滅したと考えられています。

加羅国とは何か

  • 朝鮮古代の国名で、「加羅」「伽耶」「加耶」「駕洛」など多様な表記がある。(kotobank.jp)
  • 広義には洛東江流域の小国連合「加羅諸国」全体、狭義には金海加羅や高霊加羅など特定の国を指す。(kotobank.jp)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E6%80%92%E6%88%91%E9%98%BF%E7%BE%85%E6%96%AF%E7%AD%89#cite_ref-5

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮人物で、加羅国王の息子と言う。

『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大伽耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

記録

日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている[1]

1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという[1]。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。

また、第11代垂仁天皇は、都怒我阿羅斯等が帰国するとき、先代崇神天皇の諱である「みまな」(任那、弥摩那、彌摩那)を国名にするよう詔し[1]赤絹を下賜した。ところが新羅人がこれを聞きつけて兵をあげ、それを全て奪ってしまった。このことで、その後の新羅と任那は、不和になったという[1]

一云…仍以赤織絹給阿羅斯等、返于本土。故、號其國謂彌摩那國、其是之緣也。於是、阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也。
垂仁天皇紀

2つ目の所伝では、阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした[1]。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国の国前郡の比売語曽社の神になったという[1]

なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える[2]

後裔氏族

新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている[3]

  • 左京諸蕃 大市首 - 出自は任那国人の都怒賀阿羅斯止。
  • 左京諸蕃 清水首 - 出自は任那国人の都怒何阿羅志止。
  • 大和国諸蕃 辟田首 - 出自は任那国主の都奴加阿羅志等。

考証

名の「つぬが」については、新羅の最高官位「舒弗邯(ソブルハン、角干の別名)」を訓読みしたことに由来するとする説があり、またこの「つぬが」が転訛して地名「敦賀」が生まれたともいわれる[4]。また「あらしと」とは、朝鮮語の「閼智(アルチ)」[注釈 1]に見えるように、新羅・加耶における貴人への敬称と考えられている[5][3][4]。敦賀には式内社として白城神社信露貴彦神社といった新羅(白城/信露貴)系の神社も分布しており[6]、「都怒我阿羅斯等」の名やその説話と合わせ、朝鮮半島南部から敦賀周辺への相次ぐ渡来人の来訪と定着が示唆される[3][1]

また、2つ目の所伝に見える「比売語曽社」のうち、難波の社は比売許曽神社大阪府大阪市東成区、式内名神大社)、豊国の国前郡の社は比売語曽社大分県東国東郡姫島村)に比定される[1]。この2つ目の所伝は天日槍伝説と同工異曲とされ[1]、同一の神に関する伝承と見られている[7]。「天日槍」の名称自体、上述の「ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(閼智:日の御子の名)」の日本名になるとする指摘もある[7]。そしてこれらの伝説において天日槍は新羅王子、都怒我阿羅斯等は大加羅王子とされていて天日槍が播磨国に到来した後、都怒我阿羅斯等は敦賀に到来したという意見もある[7][8]

伝承

氣比神宮福井県敦賀市)の社伝では、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとする[9]。また、氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)はその政所跡であるとし、現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされている[9]

JR敦賀駅前には「都恕我阿羅其等像」がある[10]

関連項目


脚注

注釈
  1.  人物名としては新羅・金氏王統の始祖とされるが、「閼智」には敬称としての「知恵者」の意味もあるとされる。
出典
  1.  坂本 & 平野 2010.
  2.  谷川健一『日本の神々』岩波書店岩波新書 618〉、1999年6月、180-186頁。ISBN 4-00-430618-3
  3.  福井県 1993a.
  4.  上田正昭『私の日本古代史』 上(天皇とは何ものかー縄文から倭の五王まで)、新潮社新潮選書〉、2012年12月、298頁。ISBN 978-4-10-603720-7
  5.  『国史大辞典』敦賀郡項。
  6.  福井県 1993b.
  7.  松前健『日本神話の謎がよくわかる本』大和書房、2007年12月、220-221頁。ISBN 978-4-479-39166-1
  8.  日韓共同歴史研究会 編『第2期 日韓共同歴史研究報告書(第1分科会篇)』(レポート)日韓共同歴史研究会、2010年10月。
  9.  氣比神宮由緒書。
  10.  県道敦賀港線 ‐28‐”. 福井県.2023年8月21日閲覧。

参考文献

大分姫島の比売語曾神社

20251229.jpg
昨日は福岡香春から二時間ほど車で走って、大分県国東港からフェリーに乗って、姫島にある比売語曾神社を参拝した。

比売語曾が香春から姫島に渡ったのは、夫の都怒我阿羅斯等が追っかけてきたためで、彼の手から逃げるためであった。

都怒阿羅斯等は、朝鮮史にある加羅国第二代王居登王の第七王子仙見王子と、同一人物ではないかと推定される。

加羅国の初代首露王は地元の人間ではなく、鹿の角帽をかぶる習慣から見て、北方から来たオロチ族だったと思われる。

王族は外から王妃を迎える習慣があり、首露王は許黄玉と呼ばれるインドか中国南方から来た女性を皇后に迎えた。

都怒阿羅斯等こと仙見王子も、遼東半島の有力者である公孫家出身の比売語曾と結婚したが、そりが合わなかった。

比売語曾が姫島を隠棲場所に選んだのは、古来よりここが釜山港と大阪港を結ぶ航路の中継地点だったからである。

しかも、比売語曾神社のすぐ隣には、姫も使ったとされる温泉が湧いており、海の絶景を見ながら湯治ができるスポットだ。

比売語曾は、ここで温泉につかり湯治をしながら、釜山・香春・大阪などの拠点を巡る倭人を指揮していたのであろう。

我々も、1800年前に比売語曾も使っていたと思われる拍子水温泉に浸りながら、しばし旅の疲れを癒したのであった。

野崎晃市(51)

飛鳥昭雄 蘇民将来2021


#2


ツヌガアラシト  天之日矛に関して避けて通れないのが「ツヌガアラシト」である。『日本書紀』に「都怒我阿羅斯等」という名前で登場する渡来人で、その伝承が天之日矛とそっくりなのである。しかも、書かれている場所が天之日矛の記事の直前なのだ。

  逸話はふたつある。ひとつは先代の崇神天皇の御代の話として、こう記されている。あるとき、額に角の生えた男が一艘の船に乗って越の笥飯浦にやってきた。角が生えていたので、その地を角鹿と呼ぶことにした。  何者かという問いに対して、ツヌガアラシトは自分を「大加羅国」の王子であり、名を「都怒我阿羅斯等」、またの名を「于斯岐阿利叱智干岐」と称した。日本に聖王がいると聞き、海を越えて穴門へ上陸。そこから出雲を経て、ここにやってきたという。  だが、あいにく、ちょうどそのころ崇神天皇が崩御された。やむなく、ツヌガアラシトは垂仁天皇に仕えた。3年後、垂仁天皇はツヌガアラシトに帰国することを許し、祖国の名を崇神天皇の御名「御間城天皇」にちなんで「任那」と呼ぶようにいった。

  帰国の際、ツヌガアラシトは赤い絹織物を賜り、これを大切に倉庫へ納めた。が、そこへ新羅人がやってきて、強引に赤い絹織物を奪っていった。このことが原因で、任那と新羅の関係がこじれ、人々は互いに争うようになったのだという。

  もうひとつは、こうだ。故国にいたとき、ツヌガアラシトは農具を背負わせた黄牛を引いて地方の村へ行った。すると、急に黄牛がいなくなった。足跡をたどって村の奥へと捜しに行くと、そこにひとりの老人がいた。

  老人曰く、ツヌガアラシトが捜している黄牛は、この村の役人がつかまえて食べてしまった。どうせ食べるための黄牛に違いない。飼い主がやってきたら、物を与えて代償とすればいいと村役人は考えている。だから、もし彼に会って、黄牛の代償として何を望むかと聞かれたならば、下手に財物を望んではいかん。むしろ村に祀ってある神様がほしいというがいい、と。  そこでツヌガアラシトは出会った村役人に対して、いわれた通りの返事をした。すると村役人は了承し、村で祀っていた御神体の白い石を差しだした。これを受け取ったツヌガアラシトは帰宅して納屋にしまっておいた。すると、白石は美しい女になった。ツヌガアラシトは大いに喜び、一夜を共に過ごそうとしたが、それも束の間。ちょっとした隙に女は姿を消してしまう。

  妻に聞くと、彼女は東方へ旅立ったという。あきらめきれないツヌガアラシトは女を追って海を渡り、日本へとやってきた。女は豊国から難波に至って、日本の神様となっていた。彼女は今も「比売語曽社」に祀られているという。  天之日矛とツヌガアラシトの類似性は、だれの目にも明らかだ。まず、両者は、共に朝鮮半島からの渡来人である。新羅と大加羅=任那との違いはあれど、共に王子という身分だ。渡来してきた理由のひとつは、日本に聖王がいるから謁見したい。もうひとつは逃げた女を追ってきた。どちらも説話に牛が登場し、色の違いはあれど、玉が女に化生して、さらに男の元を去って海を渡り、日本の難波で神として祀られる。天之日矛とツヌガアラシトは同一人物だと見て間違いないだろう。

  さらに『日本書紀』で、ツヌガアラシトを紹介した段には、もうひとり「蘇那曷叱智」なる人物が登場する。彼も任那の人間で、崇神天皇の時代に渡来し、垂仁天皇の時代に帰国している。その際、彼は赤い絹織物を賜ったが、これを新羅人が略奪したことで、任那と新羅の関係がこじれて争うようになったという。状況から考えて、蘇那曷叱智も同一人物だと考えていい。つまり、こうだ。 「天之日矛=都怒我阿羅斯等=于斯岐阿利叱智干岐=蘇那曷叱智」  ツヌガアラシトで興味深いのは、その額に生えた角だ。おそらく鬼のように、2本の角が生えていたのだろう。鬼門の方角は「艮」、つまり「丑寅」であり、鬼のイメージは牛の角に虎の腰巻だ。ツヌガアラシトは「牛人間」として描かれている。

  事実、朝鮮半島の官職名だとされる「于斯岐阿利叱智干岐」の「于斯岐」は「ウシキ」である。「キ」は助詞であると説明されるが、これを日本語読みすれば「牛鬼」とも解釈できる。合わせて「都怒我阿羅斯等=于斯岐阿利叱智干岐」とは、牛鬼のような角が生えた人という意味だ。  そう、これは、まさしく牛頭天王である。牛頭天王は新羅の牛頭山で祀られていた。牛頭山=ソシモリに降臨したスサノオ命は新羅から日本へと渡ってきた。ある意味、天之日矛は牛頭天王にして、スサノオ命であったのかもしれない。  もっとも、頭に牛の角があったというのは、おそらく象徴だろう。石川県七尾市にある「久麻加夫都阿良加志比古神社」では配神としてツヌガアラシトを「都努加阿羅斯止神」という表記で祀っている。実際は、主祭神である「阿良加志比古神」と同一神だと思われる。神社名にある「久麻加夫都」は「熊甲」であり、勇壮な武者甲を意味している。戦国武将の甲には、しばしば角がしつらえられる。ツヌガアラシトもまた、牛のような角をつけた甲をかぶっていたのではないだろうか。  さらにいえば、天之日矛は牛頭天王を祀っていたのではないか。彼は牛をトーテムとする一族で、牛頭天王を信仰していた。新羅にいたころ、牛頭山に牛頭天王を祀り、日本に渡来して、スサノオ命として神社の祭神としたのは、天之日矛及び、その配下でいっしょにやってきた新羅系渡来人だった可能性は高い。 イザサワケ命  天之日矛という名前は非常に日本的である。あくまでも記紀においてではあるが、実在する人間に対して「天」と冠する例は、ほかにはない。研究家によっては、そもそも天之日矛は倭国の人間だったとする人もいる。  確かに、天之日矛と同一人物と目されるツヌガアラシトは大加羅の王子だった。大加羅とは伽耶諸国のひとつで、日本は任那と呼んでいた。任那は朝鮮半島における大和朝廷の直轄地とされ、そこにいた優秀な人物に対して「天」という名を贈ったとしても不思議ではない。  問題は天皇だ。古代天皇と天之日矛の関係だ。ただ単に新羅や伽耶からの渡来人であるならまだしも、天皇と深い関係にあるとすれば、話は違う。記紀神話において、きわめて微妙な説話がひとつある。「イザサワケ命」だ。  イザサワケ命は『古事記』で「伊奢沙和気大神之命」と記される。時代としては、応神天皇のころだ。まだ「応神天皇=誉田別命」が幼かったころ、彼は豪族の有力者であった武内宿祢に連れられて諸国を行脚した際、越の敦賀へとやってくる。敦賀には父である第14代・仲哀天皇が立てた行宮「笥飯宮」があり、禊をするため仮宮を建てた。

https://note.com/paulson20220106/n/nd6b3fb0d7dad

敦賀とユダヤの物語

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日本の古代史を調べていると、大陸から渡来の神がやってきて、
各地を開拓する歴史を多く目にします。
今回記事にする福井県敦賀市もまさにそんな土地柄です。

第11代垂仁天皇の時代、ツヌガアラシトという神が日本にやってきます。
その神が治めた地をツヌガ国といいました。
このツヌガ国が後世変化し敦賀になったという言い伝えがあります。

ツヌガアラシト。変わった名前ですね。その名前の由来は「ツノがある人」
からきていると言われます。
「ツノがある人」というのがポイントで、
その姿からユダヤの神を連想させられます。

ミケランジェロやレンブラントはモーゼを頭からツノが生えた存在として
表現しました。

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「ユリウスⅡ世廟のモーゼ像」ミケランジェロ作

また旧約聖書にあるモーゼ五書のうちの一書、民数記では神を牛のツノに例える部分があります。
このことにより金の子牛はヤハウェの原型だったと考えられています。
ツノがある存在とはどうも旧約聖書に関連する
ユダヤの神の匂いがするんですよね。

日本には他にもツノがある存在として「鬼」がいますね。
僕はこの「鬼」という存在もユダヤに関連した渡来の神だったと考えています。
その神が後世「鬼」という存在に貶められたと。

そんなツノがあるツノガアラシトですが、日本書記によると古代朝鮮加羅国からやってきた加羅国の王子とされています。

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加羅 wikipedia

古代の朝鮮半島は現在と人種構成が違います。加羅や新羅の遺跡から4世紀〜6世紀のローマングラスが発掘されていることからわかるように、ユーラシア大陸の西から様々な民族が朝鮮半島にやってきていたと思います。秦始皇帝も目が青かったとされていますしね。

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新羅の古墳出土のローマングラス

であれば、加羅国の王子ツヌガアラシトがユダヤに源流を持つ人物である可能性は十分あります。
そしてなにより僕がこのこのツヌガアラシトの源流がユダヤにあると感じる最大の理由は、アメノヒボコと同一人物と考えられているからです。
アメノヒボコとは神功皇后、応神天皇の御先祖です。
応神天皇は以前記事にしましたが、ユダヤやキリストの匂いがぷんぷんする天皇です。

その応神天皇の御先祖ですから、キリスト以前のユダヤに源流があると見てまず間違い無いと思います。
アメノヒボコも渡来の神です。
新羅からやってきたとされていますが、その源流をたどればおそらく中東に辿り着くはずです。

敦賀には越前國一宮氣比神宮があります。
御祭神には神功皇后、応神天皇が名を連ね、境内にある角鹿神社でツヌガアラシトを祀っています。
そんな氣比神宮、地元では「けい」さんの愛称で親しまれています。
この「けい」さんとは敦賀気比の「けひ」という御食津神(食物神)からきていると伝えられていますが、僕はもっと深い意味があると考えています。

原始キリスト教ネストリウス派は中国で景教(けいきょう)と呼ばれました。
おそらく日本に入ってきた当初もそう呼ばれていたでしょう。
景教を日本に持ち込んだのは秦氏と伝えられています。ユダヤ説の根強い氏族ですね。そして他ならぬ神功皇后、応神天皇を祀る神社の愛称ですから、それが景教からとった「けい」さんだとしても全然あり得る話だと思います。

まあ、なにはともあれこのツヌガアラシト、地元での崇敬は現在でもとても厚く、敦賀駅前には銅像が立っています。

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人文研究見聞録より

勇ましい!よほど敦賀の開拓に尽力を尽くした人なのでしょう。現在まで続く信仰の深さ、地名の由来になっていることから見てもその功績は多大なものであると推測できます。大陸からの技術を敦賀に持ち込み、人々の生活をだいぶ向上させたのかもしれません。いずれにせよ、古代の敦賀に住んでいた人々は彼に大いに助けられたことでしょう。

さて、そんな大陸からの渡来神、ツヌガアラシトを神として崇めたこの敦賀。
何の因果かその歴史は近代になり、別の形で繰り返されます。

第二次対戦中、ナチスから迫害を受けたユダヤ人を亡命させるため、外務省職員の杉原千畝(すぎはらちうね)がビザの発給を開始します。
いわゆる「命のビザ」ですね。当時このビザによって救われたユダヤ人は6000人にのぼると言われます。

そしてその6000人のユダヤ人を受け入れたのが敦賀港なのです。

苦難の旅路を経て北陸の地に降り立ったユダヤ難民。
彼らは現地の住人に手厚く迎えられ、
「敦賀はまるで天国に見えた」
とのちに語っています。

太古の時代、ツヌガアラシトというユダヤの神により発展した敦賀の地。
その敦賀が近代になり、今度は迫害されたユダヤ人を助けるために港を開く。

なんてロマンのある話でしょう。

ただの偶然と言われればそれまでですが、僕はそこに敦賀という土地の持つ、太古の記憶が作用したと信じます。かつてユダヤの神により開拓されたこの土地が、
長い長い時を経て迫害されたユダヤ人を受け入れる。
なぜビザを発給したのが日本人だったのか?なぜ受け入れ先が敦賀だったのか?
僕はこの事実に古代からの大きな因果を感じます。

当時のユダヤ難民が敦賀はまるで天国だったと語っているように、彼らを迎え入れた敦賀市民は無償で食べ物を提供したり、銭湯を開放したり、手厚いもてなしをしたそうです。
当時の敦賀市民が建国の祖の源流がユダヤにあることを知りながら難民に接していたとは思いませんが、かつて、はるか昔、ユダヤの神に先祖が助けられたという遺伝子の記憶が無自覚のうちに作用していたのではないかと思います。

大陸のはるか西から亡命してきた異国の人間に、遠い古代から連なるなにかしらのシンパシーを感じていたのではないでしょうか。

遺伝子の記憶。僕はこれが知りたくて古代史を調べています。
そして最近わかったことがあります。
遺伝子の記憶とは、知識ではなく感覚なんだ。
これからも感覚を頼りに遺伝子の記憶を探っていこうと思います。

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